市川團十郎 (8代目)
八代目 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう、文政6年10月5日〈1823年11月7日〉[1] - 嘉永7年8月6日〈1854年9月27日〉[1])は天保年間から幕末にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升、替紋は杏葉牡丹。俳名に団栗、白猿、夜雨庵、三升がある。 その美貌によって広い人気を集めたが、32歳のとき突如として自殺するという衝撃的な最期を遂げた。 来歴
文政6年(1823年)、七代目市川團十郎と妻すみ(芝居茶屋、福地善兵衛の娘)の長男として江戸に生れる[1]。團十郎家の跡継ぎとして見込まれて生後一箇月で初舞台を踏み、二代目市川新之助を名乗る[1]。文政8年(1825年)、数え三つにして六代目市川海老蔵を襲名した。さらに天保3年 (1832年) には父が五代目市川海老蔵を名乗ったのにあわせて、10歳にして市村座で八代目市川團十郎を襲名する[1]。 天保13年(1842年)に父親の七代目団十郎が江戸追放になると八代目は16歳で江戸歌舞伎界の最高責任者となり、弘化2年(1845年)には、父に代わって家を守る親孝行者として幕府により表彰される。これにより八代目の人気は爆発的に高まり、「助六」の舞台上で八代目が身を沈めた桶の水を美顔水としてとっくり1瓶1分(現在の価格で3000円ほど)で販売すると飛ぶように売れ、中には八代目の痰を「団十郎の御痰守」として販売する者まであった。 面長の美貌で、歴代の團十郎とはまったく仁の異なる二枚目役者だった。天保の改革によって一時深刻な不況をこうむった江戸の芝居町に人出が戻ったのは、八代目團十郎に負うところが大きかった。上品ななかに独特の色気があり、おっとりとした愛嬌が身にそなわって、嫌味がなかったという。当時の批評には「男振りはすぐれて美男子といふにあらねど、いはゆる粋で高等で人柄で、色気はこぼれる程あれどもいやみでなく、すまして居れども愛嬌があり」(『俳優百面相』)とある。さわやかで高音の利いた調子の科白回しがうまく、こうした特色は彼が初演した『与話情浮名横櫛』(切られ与三)の与三郎によくあらわれている。同作は瀬川如皐 (3代目)が八代目のために嘉永6年(1853年)に書いたものである。 嘉永7年(1854年)7月、大坂の芝居に出演していた父・海老蔵を訪ねて東海道をのぼり、名古屋で父と一緒になって成田屋八代目の名義で若宮芝居に出演した。その後同月中には大坂に着き、道頓堀で船乗込みを行って稽古にかかったが、初日に旅館の一室で突如喉を突いて自殺した[2]。享年32。動機は不明だが、一説には七代目の作った多額の借金返済のため図らずも大坂の芝居に出演することになってしまい、出演予定であった江戸の市村座の座元(劇場所有者)への義理を立てたといわれる。八代目の死絵は300種も出たといい、中には七代目と江戸の座元との板挟みに悩んだとする自害の原因を描いた死絵もあった。 ![]() ![]() 天王寺村の一心寺に葬る。法名は浄筵信士[3]。八代目の死により返済できなくなった市川家の借財(成田山から七代目が借りた莫大な借金と八代目が借りた100両)は新勝寺が処理した[4][5]。 得意な役柄は『切られ与三』の与三郎のほかに、『菅原伝授手習鑑』の梅王、『児雷也豪傑譚』の児雷也、『助六所縁江戸桜』の花川戸助六、『偐紫田舎源氏』の足利光氏などの二枚目のほか荒事も好んでつとめた。市川宗家の芸に和事芸という新しい分野を開拓、その芸の系譜は十一代目團十郎に引き継がれることになる。 独身で後嗣がなく、20年の空白を経て、弟の初代河原崎権十郎が九代目團十郎を襲名している。
逸話
脚注
伝記 |
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