帯解黄金塚古墳
帯解黄金塚古墳(おびとけこがねづかこふん)は、奈良県奈良市田中町にある古墳。形状は方墳。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「黄金塚陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇皇子崇道尽敬皇帝舎人親王)として陵墓参考地に治定されている。 概要奈良盆地東部、大和高原西麓の菩提仙川北側に築造された古墳である。1890年(明治23年)に石室が発見され、1951年(昭和26年)以降に調査が実施されている。 墳形は方形で、一辺約30メートルを測る(墳丘裾検出を踏まえた2011年度報告値、現地表上27メートル)[1]。墳丘は2段築成[1]。墳丘裾周囲には石列・石敷が巡らされており、その外側の東・西・北にはコ字状の外堤が構築され、外堤を含めた古墳全体としては東西約120メートル・南北約65メートルにおよぶ。また東外堤上には石棺(田中古墳)が認められる[2]。埋葬施設は磚積式の横穴式石室で、南方向に開口する。石室全長12.47メートル(推定復元約13-16メートル)を測る大型石室で、玄室・前室・墓室状区画・羨道からなる複室構造の石室である。石材にはレンガ状の流紋岩質溶結凝灰岩(榛原石)が使用され、奈良盆地北部では唯一の例になる。石室内の副葬品は詳らかでないが、墳丘周囲の石敷から須恵器が検出されている。 築造時期は、古墳時代終末期の7世紀中葉(飛鳥I-II段階)頃と推定される[1]。類例のない内部構造・外装施設を備える点で特異な古墳であり、特に墳丘裾の石敷は飛鳥時代の宮殿跡・寺院跡の遺構と似る点で注目される。実際の被葬者は明らかでないが、かつて第20代天武天皇皇子の舎人親王(天平7年(735年)死去)の墓とする伝承があり、現在では宮内庁により陵墓参考地に治定されている。 遺跡歴
埋葬施設埋葬施設としては磚積式の横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。玄室・前室・墓室状区画・羨道から構成される複室構造の石室である。石室の規模は次の通り[2]。
石室の石材はレンガ状の流紋岩質溶結凝灰岩(榛原石)で、全面に漆喰が塗布される。 脚注参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連項目 |
Portal di Ensiklopedia Dunia