度支顧問事件度支顧問事件 (たくしこもんじけん)とは、1897年、駐韓ロシア公使シュペイエルが大韓帝国の度支衙門の顧問を、イギリスの推薦したジョン・マクレヴィ・ブラウンから自国人アレクセーエフに代えさせ、露韓銀行を設立しようとした事件である[1][2]。 概要1897年、李氏朝鮮の国王であった高宗が大韓帝国皇帝として即位にするのに合わせ、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルは大韓帝国の度支衙門(日本の大蔵省に相当)の顧問を、イギリスの推薦したジョン・マクレヴィ・ブラウンから自国人のキリル・アレクセーエフに代えさせるよう要求し、韓国政府はそれを受け入れた[1]。アレクセーエフは、1898年2月には、絶影島の租借を大韓帝国政府に承認させ、また、3月には露韓銀行支店を韓国の首都漢城府に設置した[3]。これに反発したイギリスは東洋艦隊を仁川に派遣した[1]。 一方、朝鮮の自主独立を唱える独立協会はこうした動きに反発して1898年2月、反露闘争を起こした[3][注釈 1]。独立協会は、3月に開かれた漢城市民による「万民共同会」と称された街頭大衆集会にも支えられ、救国宣言上疏を展開し、ロシア人軍事教官および財政顧問の解任と、露韓銀行の撤収などを韓国政府に迫った[3][4]。この上疏運動は韓国政府を動かし、ついにシュペイエル公使にロシア人軍事教官・財政顧問を継続雇用しないことを通告した[3]。 ロシアは、1898年3月15日、清国とのあいだに旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、その結果、遼東半島に不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事顧問が撤退し[5][6]、翌4月には露韓銀行も閉鎖された[6]。同年8月、ロシア語通訳の金鴻陸は高宗暗殺未遂を起こしたとされ (毒茶事件)、10月に処刑された。なお、韓露条約は1904年に破棄された (韓露條約廢棄勅宣書及理由書)。 日本への影響韓国政府は刻印附圓銀での納税の禁止を命じたものの、総税務司のブラウンはこれを無視して収税を行っていたとされる[6]。 年譜
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |
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