式守伊之助 (24代)
24代 式守 伊之助(にじゅうよんだい しきもり いのすけ、1919年4月15日 - 2013年2月1日)は、大相撲の立行司。式守伊之助としての在位期間は1977年11月~1984年3月。朝日山部屋所属。 人物香川県大川郡志度町(現さぬき市)出身。本名は尾崎信雄。父親は高砂部屋の元三段目力士。 23代木村庄之助(2代木村正直)の弟子。1935年1月場所に初代木村正義の名で初土俵。その後、木村正信時代の1961年11月場所、三役格行司に昇進。翌1962年1月場所、3代木村正直を襲名。立行司24代式守伊之助を襲名するまで16年間(96場所)も三役格行司を務めた。 本来ならば、木村庄之助も襲名できるキャリアであったが、1971年末の行司のストライキ後の抜擢制度も絡み、1974年1月に4代木村玉治郎が自身を追い越し立行司に昇格、23代伊之助を襲名。23代伊之助が27代木村庄之助に昇格した1977年11月場所で正直も立行司に昇格、24代伊之助を襲名するも結果的には行司抜擢制度の煽りを食らった形で伊之助止まりとなった。 1984年3月場所後停年。伊之助在位39場所は伊之助在位場所数としては25代伊之助(40場所)に次いで2位である。 正直時代には、投げの打ち合いで際どい取組になると、土俵に顔がつくほどに屈み込んで勝負の判定をすることがあり、その様がプロレスのレフェリーがピンフォールのカウントを取る所作に似ていたので、「プロレス行司」と呼ばれていた。 制限時間いっぱいの「待ったなし!」の掛け声をかける時、仕切り線まで割って出て、前屈みで軍配を返していた。 弟子に4代木村正直がいる。2013年1月29日にその正直に59歳の若さで先立たれると、自身も3日後の2月1日に鬱血性心不全のため死去。享年93[2]。 その他
履歴
関連項目脚注
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