徳野政樹徳野 政樹 (とくの まさき、英: Masaki Tokuno、1952年9月28日 - ) は、大阪府堺市出身[1]の元オートバイ・ロードレース選手。カワサキやホンダのワークスライダーとして活躍した。ニックネームはウィリー徳野[2]。 兄の博人もロードレースライダー[3]。 経歴父が大阪・堺でカワサキ特約店「浜寺モータース」を経営しており、オートバイは身近な環境にあった[4]。16歳で鈴鹿サーキットを走り、レースデビューする。 1972年、川崎重工業にオートバイテストライダーとして加入。1973年にMFJ競技ライセンスでセニア(国際A級)に昇格すると、1975年鈴鹿200マイルレースで総合5位に入賞など結果を残し始める。1977年、レース活動を希望する社内の有志が集まったチーム「KSSR(神戸スーパースポーツレーシング)」で鈴鹿8時間耐久レースの前身である鈴鹿6時間耐久レースにZ650で参戦、クラス優勝・総合でも5位と上々の結果を残す。1978年に社内チームがTeam38に再組織され、徳野はチームのエース的な存在であった。 1979年の鈴鹿8時間耐久では、兄・博人との「徳野ブラザース」で出走。1980年にはカワサキ車をベースとした「モリワキ・モンスター」でアメリカAMA・デイトナ200に遠征し、4位の好成績を挙げる。 ![]() 1983年より、ホンダワークス・HRCへの移籍が決定。カワサキでの同僚だった斉藤昇司は、「徳野さんはピカ一で速かった。カワサキの社員からホンダのワークスライダーになるんだからすごいですよ。」と当時を述べている[5]。HRC契約ライダーとして4ストロークTTフォーミュラマシンで全日本選手権や鈴鹿8時間耐久レースに出場。1985年と1987年の全日本ロードレース・TT-F1クラスでは、最終戦まで年間チャンピオンの可能性を残しタイトル争いを繰り広げたが、両年ともに終盤戦で選手権ポイントを獲得できずヨシムラ・スズキ勢に惜敗。1985年の鈴鹿8時間耐久ロードレースでは、GPライダーワイン・ガードナーのパートナーとしてホンダワークスの優勝を支えた[6]。 1987シーズンをもってHRCとの契約を終え、1988年の鈴鹿8時間耐久では阪神ライディングスクールの後援を受け、木下恵司との「元HRCコンビ」で参戦。1989年大会では、高田純次がチーム監督に就任した「スポーツキッスレーシング」から参戦し話題となった。1991年には、チーム徳野を母体としてモータースポーツ好きで知られる掛布雅之を総監督に迎え入れ参戦した[7]。以後、鈴鹿8耐には2003年まで長きにわたって参戦し、19回目の参戦となった同年の公式プログラムでは鉄人と称された。 レース戦歴全日本ロードレース選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
脚注
|
Portal di Ensiklopedia Dunia