成都武侯祠座標: 北緯30度38分41秒 東経104度02分58秒 / 北緯30.644591度 東経104.049372度
成都武侯祠(せいとぶこうし)は、中華人民共和国四川省成都市武侯区にある、三国時代の蜀の丞相・諸葛亮と、その主君・劉備と蜀の功臣を一体に祀る、国内唯一の祠堂。 諸葛亮を祀った「武侯祠」と呼ばれる祠堂は中国各地にあるが[注 1]、その中でも有名なもののひとつである。 中国西南地域最大の平野に位置し、古くから戦略の要衝として栄えてきた成都の地に立つ。この地は劉備が蜀漢(季漢)を建国し、都を定めた場所でもある[2]。 1984年、「成都武侯祠博物館」成立、2008年国家一級博物館認定[3]。 歴史と沿革三国~成漢時代頃惠陵と劉備の廟![]() 章武3年(223年)4月、蜀漢の初代皇帝・劉備は永安宮で病死し、同年8月、諸葛亮によって成都南郊の『恵陵』に葬られた[4][5][注 2]。漢代の慣習に従い、恵陵の隣に劉備を祀る「先帝廟」別名「恵陵廟」が建立された[7]。 当初は小規模だったこの廟は、そののち、南朝斉の高帝・蕭道成の時代に拡張され、記念的な祠廟としての形を整えている[8][9]。 ふたつの孔明廟建興12年(234年)に諸葛亮が亡くなると、29年後、蜀漢第二代皇帝・劉禅は群臣の進言を受け、景耀6年(263年)春、沔陽(現在の陝西省勉県)に諸葛亮の廟を立てるよう命じた[10][11]。これは、三国時代の劉備の陵廟と諸葛亮の廟がそれぞれ離れた場所で祀られていたことを示している[12]。 諸葛亮の廟はこのほかに、南宋の祝穆が著した『方輿勝覧』によると、「武候廟が府の西北二里にあり、今は乗煙観となっている…(中略)…成漢の李雄が王を称した時(304年)に初めて少城内に廟を建て、桓温が蜀を平定した際(347年)、少城は破壊されたが、孔明(諸葛亮の 唐代:武侯祠の興隆![]() 現在の『武侯祠』が劉備廟に付随して建てられたのは、約5世紀頃(420年~589年)の南北朝時代と推測されている[12][注 3]。武侯祠の「武侯」とは「忠武侯」と諡号された諸葛亮を指し、彼を祀る霊廟を意味する[16]。 唐代に入ると、武侯祠は南郊の一大名勝として文人墨客が集う場所となっり、唐の詩人である杜甫や李商隠は、この地の武侯祠や劉備廟について詩を残しており、両者が隣接しながらも独立した存在だったことが示唆される[17][18][12]。 元和2年(807年)に剣南西川節度使の武元衡が諸葛亮を拝謁後に建立を命じた「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」、通称「三絶碑」が建てられる[19]。この碑は裴度が撰文し、柳公綽が書丹、魯健が刻んだもので[20][21]、諸葛亮の功績・裴度の文章・柳公綽の書法の三つが絶妙に調和していることから「三絶碑」と呼ばれ、現在も武侯祠に残り、当時の武侯祠の重要性を示している[22][23]。 宋、元代を通じては、武侯祠の具体的な位置に大きな変化はないが、これらの時代も、諸葛亮を祀る場所として多くの人々に崇敬され、修復が繰り返されてきたことが記録に残されている[24][25]。 明代:配置の大転換大きな動きがあったのは明朝初期の頃である。蜀献王・朱椿は、劉備廟よりも武侯祠の香火が盛んなことに不快感を覚え、「武侯祠が恵陵と劉備廟に近すぎるのは礼制に合わない」、「君臣は一体であるべき」という理由を掲げ、武侯祠の廃止を命じた[26][25][注 4]。その上で、「劉備殿」の東西に廊下を増築し、東の廊に諸葛亮を、西の廊に関羽・張飛を合祀した[28][29]。これは劉備を主とする配置への回帰を意図したものだったが、皮肉にも「劉備が諸葛亮の廟に入った」という印象を与え、後世の認識に影響を与えた[30][29]。 清代:大規模な再建文臣武将を祀る![]() 明末の度重なる戦乱で武侯祠は破壊されてしまうが、清の康熙10年から11年(1671年~1672年)に按察使の宋可法らの主導で再建される[29]。 この時、君臣の礼制を考慮し、「劉備殿」が前、「諸葛亮殿」が後に配置される「一祠二殿」という君臣合祀の形が確立され、「劉備殿」の両廊の「両廡」(りょうぶ:現在の文臣武将廊)には、蜀の功臣である文臣・武将が祀られることになり[31]、現在見られる規模となった(→次節「#三国歴史遺跡区④文臣武将廊」参照)[32]。なお、宋可法は再建の碑文で「武侯祠」と称し、「劉備廟」という呼称を避けている[33][34][29]。 康熙34年(1695年)、四川巡撫の于養志は、自身の「諸葛忠武侯祠堂碑記」に祠廟の桁や梁、柱が弱って支えきれなくなったもの、瓦や煉瓦、塀が崩れて支えを失ったものを、「諸大夫とともに先頭に立ち、すべて取り換えて新しくした」と修繕記録を残している。この碑も武侯祠に現存する[32]。 乾隆21年(1756年)には、四川布政使の周琬が劉備廟と武侯祠の経緯を考証し、劉備廟の名を復活させようと「漢昭烈廟」(昭烈:劉備の諡号)の扁額を掲げたが、しかし、民衆は依然として「武侯」と呼び続け、その試みは実らなかったという[35][36]。 乾隆53年(1788年)、四川総督の李世傑が、華陽知県の程煜と成都県丞の黄銑に修繕を命じる。現存する黄銑の碑には、「工事は同年2月18日に始まり、同年5月13日に完成、廟の姿は雄大になり、陵墓も堅固になった」と記される[37][32]。 塑像の配置換え![]() 清代で最も重要かつ最大の修繕工事は、道光5年(1825年)に清代の四川で最も著名な学者の一人である劉沅主宰のもと行われた[32]。 劉沅自身の定めた「純臣」の基準に基づき、両廡に置かれていた法正・許靖・劉巴、そして史実に基づかない李彪・張虎の像を撤去している。さらに劉沅は、文臣・武将それぞれの像の前に、人物の事績を簡潔に説明する石碑を追加した。これら碑文は、陳寿の『三国志』の記述を基に要約されたものが刻まれており、現在も塑像と共に展示されている[32]。 清代最後の修繕は道光15年(1835年)、四川総督の鄂山主宰のもと行われた。同年5月2日に工事を開始し、8月26日に終了するまで、約3ヶ月強の期間を要している[32]。 民国時代の修繕![]() 民国11年(1922年)、川軍臨時総司令官であった劉成勲が、成都の長老たちの勧めを受け、資金を募って祠廟の修繕を行った。具体的な修繕状況は、現在も祠内に残る尹昌齢の「重修諸葛忠武侯祠記」碑に記されている[38]。劉成勲は劉備の末裔であると自称し、修繕完了後、劉沅が付け替えた大廟の正門の扁額「漢昭烈帝廟」に、「献 漢昭烈帝廟 四十八代裔孫 劉成勲」と自身の題跋を追加している[32]。 中国:危急存亡の秋中華人民共和国が成立した1949年以降、武侯祠は一般公開され観光名所となり、1961年「成都武侯祠博物院」に認定、中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定される[39]。 しかし、1966年に文化大革命が起こると閉鎖を余儀なくされる。このとき、周恩来が武侯祠を保護するよう指示を出し、内部職員はすべての扁額や対聯を毛沢東語録や文化大革命のスローガンで覆うなど、様々な措置を講じて保護に努めたため、大規模な破壊は免れた。文革中の1971年、英国籍の華人女性作家・社会活動家の韓素音(ハン・スーイン)が成都を訪れ、武侯祠を見学しようとしたが、まだ閉鎖されており、一部の塑像には髭や指の欠損が見られ、祠内は荒廃した状態だった。そこで、職員はこの機会を利用し、集中的に環境整備を行い、特別に民間の職人を招いて塑像の破損箇所を修復した。こののち、武侯祠は徐々に一般公開されていく[32]。 現代:博物館の成立1984年「成都武侯祠博物館」成立、2008年国家一級博物館認定、その他沿革は以下の通り[3]。 ![]()
また、武侯祠が三国文化の研究・学術の中心となることを目指し、以下の活動を行う[40]。 そのほかの出来事として、2022年に「諸葛亮殿」の壁の中から清代の碑刻8通が発見されている[41]。 主な特色![]() 敷地面積は約15万平方メートル。劉備、諸葛亮と蜀漢の英雄を称え、君主と臣下を一体で祀る、中国国内で唯一の寺院である[42]。 武侯祠は主に恵陵、漢昭烈廟、諸葛亮殿、三義廟の「三国歴史遺跡区」と、川軍(四川軍)の有力指導者・劉湘の陵園が主体の「西区」(三国志文化体験区)、四川西部の民俗・風俗を反映した「錦里民俗区」の三大要素から成る[42]。 「劉備殿」東西の廊に並ぶ、文臣・武将合わせて28人の塑像は、清代の民間芸術家の手によるもので、成都武侯祠博物館の『武侯祠大観』によると、「塑像の外見は後代の伝承や小説・戯曲由来である」[43]と記されているように、これらは『三国志演義』を基にした、清代の戯曲の演者の姿を基に塑像されている[44]。 三国歴史遺跡区
(以下の主な出典:「[45]」、成都武侯祠ウェブサイト)
錦里民俗区![]()
→詳細は「zh:锦里」を参照
武侯祠の東側に南北に伸び、約550メートルにわたる。明・清時代の様式を外観に、川西地方の民俗文化を内容として、歴史と現代が有機的に融合された、精巧なレトロ調の通り。川西地方の伝統的な民家建築様式にすることで、古き成都の風俗を表現している[51]。 「錦里」の名は「蜀錦」に由来し、古くから養蚕が盛んで、シルクロードを経由して西域諸国へ蜀の織錦が遠く輸出されていたことから、かつて成都の別名としても使われるほど長い歴史を持つ[51]。『三国志』にも、劉備が益州(現在の四川)を占領した後、「諸葛亮、関羽、張飛らに金・銀のほか、「錦」を千匹褒賞として与えた」という記述が残されている[52][53]。 通りに面して建ち並ぶ店々は5、6メートル幅の道の両側で向かい合い、通常は上下2階建て、1階は店舗として使われ、2階は別の用途に供されている。成都の有名な特産品である閬中発祥の「張飛牛肉」、抄手(ワンタン)、賴湯円(もち粉の団子)、担担麺、涼拌兔丁(ウサギの和え物)、夫妻肺片(モツの和え物)、串串香(火鍋の一種)といった四川の伝統的な軽食が楽しめる[51]。2006年に国家文化部から「国家文化産業模範基地」認定、2011年「成都新十景」選出[51]。 西区![]()
武侯祠西側に位置する三国志文化体験区(旧称・成都南郊公園)。元は劉湘の陵園だったが、2003年に東の武侯祠と併せられた[3]。 現在、以下の施設を備える[54]。
対聯「攻心」![]() 成都武侯祠内に飾られている40種弱の対聯のなかでもっとも名高い、清の趙藩(雲南省出身)の作品を紹介する。「攻心(聯)」と呼ばれ諸葛亮殿に掲げられている[55][56]。
諸葛亮と馬謖との関係を踏まえたもので、前聯は七縦七擒の挿話、後聯は「泣いて馬謖を斬る」の故事を背景としている[56]。後聯については、諸葛亮の厳格と劉璋の寛容とのふたりの政治姿勢の違いを述べたものとの解釈もある。 清光緒28年(1902年)、四川塩茶使者の官にあった趙藩が当時の四川総督への忠告として作成した[56]。毛沢東が強い関心を寄せた対聯としても知られ、再度成都武侯祠を訪れている[57]。 民間伝承恵陵と文臣武将廊の塑像には、以下の逸話・民間伝承が存在する。 ![]() モデルは、川劇(四川の戯曲)「太洪班」所属・龐統役で有名だった何二胖[58]。
脚注注釈
出典
参考文献文献
書籍(中国語)
書籍(日本語)
関連項目外部リンク以下は中国語(簡体字)のウェブサイト。
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