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戦前・戦中期日本の言論弾圧の年表(せんぜん・せんちゅうきにほんのげんろんだんあつのねんぴょう)においては、戦前の日本における、左翼勢力・自由主義者・宗教団体に対する言論弾圧・粛清事件を年表にして示す。治安当局が行った弾圧事件・粛清や、弾圧・粛清と主張される事件の年表である。
概要
戦前、即ち大日本帝国憲法下の日本における言論弾圧・粛清には、以下のものが存在する。
- 非合法的左翼勢力(すなわち日本共産党・共産主義者)およびその関連団体(大衆運動組織)などへの弾圧・粛清
- 合法的左翼勢力(すなわち一部の急進的社会民主主義者)および自由主義的知識人などへの弾圧・粛清
- 体制内の非主流派・批判的グループ(左翼からの転向者が多かった)などへの弾圧・粛清
- 一部の宗教団体への弾圧
この中で弾圧立法として大きな役割を果たしたのが治安維持法であり、幾度かの改正を経て本来の立法意図をすら逸脱し、広い意味での体制批判者を取り締まる法へと拡大解釈されていった。敗戦後、GHQの政策により治安維持法体制は一転して解体に向かった。
江戸時代まで
江戸時代までの日本の統治機構(幕府や大名など)においては三権分立の概念がなく、行政・立法・司法の三権は一体であり、警察や行刑の権利も伴っていた。
そのような状況のもとで、裁判や立法は権力者や官僚の意向に左右されること、犯罪の取り調べで拷問を通じて自白を引き出すこと、法令が「由らしむべし、知らしむべからず」の方針のもとで庶民に非公開であることは当然であった。
中世日本においては、警察・裁判・行刑などを合わせた治安維持機能を検断といい、検断を通した刑罰では死刑や追放刑、肉体刑が中心であり、それに没収刑を伴うことが多かった。また、検断の執行者は罪人のみならず罪人の親族などからも財産を没収することも認められた。そのため、検断の執行者(荘園領主や、守護や地頭、惣村の指導者など)は、検断を財産の強奪のために悪用することが多く、冤罪をひき起こしやすかった。そのため、日本における、治安維持の性格はある種の残虐性を帯びることになった。
江戸時代においては、武士を頂点とした秩序のもとで百姓や町人は無権利状態におかれ、武士は、無礼打ちの特権を利用して、無礼を働いた百姓や町人を裁判抜きで殺害することが認められていた。
特に、江戸時代にはキリスト教のカトリックは、神国日本にとって有害な邪教であると禁教令で規定された。江戸幕府や大名は、カトリックの信者(キリシタン)に対して、過酷な拷問や絵踏を通じて、信者の肉体と内心に打撃を与えて棄教を迫り、その結果、多くの信者が殉教することとなった。
キリシタンが壊滅した後は、蛮社の獄や安政の大獄など体制批判に対する弾圧へ移り、幕末には新選組や京都見廻組を配置して倒幕派を襲撃した。浮世絵等の世俗の文化にも度々出版規制を行った。
江戸時代までの統治機構における治安維持の体質や、キリシタン禁教に見られる反政府・反国体の思想や宗教への厳しい対応は、大日本帝国における警察を通じた、言論弾圧・粛清にも継承されていく。
1868年 - 1899年
1900年 - 1919年
1920年 - 1925年
- 第一次世界大戦が終わった頃から増加した労働組合団体や、第一次日本共産党など幸徳事件後の「冬の時代」を経て復活しつつあった社会主義者への弾圧・粛清がなされた。さらに共産主義・反天皇制の運動を取締対象とする治安維持法が制定されたことは言論弾圧・粛清の大きな転換点となった。同時期には、上杉慎吉は帝大七生社などの右翼団体の設立に関与し、平沼騏一郎は日本大学の総長を務めることで、1930年代の右翼勢力の拡大や言論弾圧・粛清を担う人材の育成に努めた。また、治安維持法の設立には平沼や鈴木喜三郎などの司法官僚経験者が関与した。
1926年 - 1932年
- 前記(1)のタイプの弾圧がピークを迎えた時期。治安維持法を適用し京都学連事件・三・一五事件・四・一六事件事件など、共産党及びそれに近いと見られた合法的大衆団体への弾圧・粛清が展開された。この過程で治安維持法改正(厳罰化)がなされた。四・一六ののち共産党は次第に党勢を回復しつつあったが熱海事件によって大打撃を受けた。
1933年 - 1936年
- (1)のタイプの弾圧・粛清が最終局面を迎え、(2)のタイプの弾圧へと移行しつつあった時期。滝川事件・天皇機関説事件は、弾圧・粛清対象が共産主義者のみならず自由主義者の合法的言論活動へと拡大した画期とされる。共産党は獄中被告の転向声明やスパイ査問事件の発覚により組織としてはほぼ解体した。この時期においては、貴族院議員で大日本帝国陸軍出身の菊池武夫が暗躍した。
1937年 - 1940年
- (2)のタイプの弾圧・粛清がピークを迎えた時期。矢内原忠雄・河合栄治郎・津田左右吉ら大学教員の言論・著作活動が問題化して辞職・主著発禁を余儀なくされ、また共産主義者とは言い難い社会民主主義者の一部が検挙された。さらに政治組織ですらない『世界文化』グループなど研究会・文化サークルの活動も弾圧・粛清対象となった。
1940年 - 1945年
年表
1868年 - 1899年
1900年 - 1919年
1920年 - 1925年
1926年 - 1932年
1933年 - 1936年
1937年 - 1940年
1941年 - 1945年
- 1941年1月:企画院事件の始まり。調査官の稲葉秀三・正木千冬・佐多忠隆検挙。
- 1941年3月10日:治安維持法全面改正公布[予防拘禁制度の新設]。
- 1941年5月15日:予防拘禁所設置。
- 1941年10月15 日:尾崎秀実検挙。ゾルゲ・尾崎事件の始まり。
- 1941年12月9日:全国の治安維持法違反被疑者・要視察人・予防拘禁予定者計396名を検挙・検束・仮収容。
- 1941年12月19日:言論、出版、集会、結社等臨時取締法公布。
- 1942年4月24日:尾崎行雄、選挙演説で不敬罪で起訴。
- 1942年6月29日:中西功ら上海反戦グループ(「中共諜報団」)の検挙。
- 1942年9月12日:横浜事件の始まり。
- 細川嘉六「世界史の動向と日本」を掲載した『改造』の発禁(14日:細川の検挙)。また同月、世界経済調査会の川田寿・定子夫妻が神奈川県警察部特高課に検挙。1943年5月26日:細川および中央公論社・改造社社員の会合を共産党再建会議と見なし検挙開始(泊事件)。1944年1月29日:前記2社のほか日本評論社・岩波書店・朝日新聞社の編集者、昭和塾関係者を検挙(合計49名)。7月10日:『中央公論』『改造』廃刊命令。
- 1942年9月21日:満鉄調査部事件。調査部の具島兼三郎・大上末広ら検挙。
- 1943年1月1日:中野正剛の「戦時宰相論」を掲載した朝日新聞の発禁。
- 1943年3月13日:戦時刑事特別法公布。
- 1943年3月15日:大阪商大事件。
- 名和統一教授および急進的学生グループなど20名が検挙。
- 1943年3月15日:『中央公論』掲載の谷崎潤一郎「細雪」連載禁止。
- 1943年6月3日:きりしま事件。鹿児島県警察部特高課長・奥野誠亮が主導したフレームアップにより俳句誌『きりしま』の同人3名を始め総勢37名を治安維持法違反で検挙。
- 1943年6月20日:創価教育学会(現・創価学会)の牧口常三郎・戸田城聖ら検挙。
- 1944年2月23日:竹槍事件。
- 毎日新聞「竹槍では間に合わぬ」の記事で差し押さえ。
- 1944年11月18日:牧口常三郎の獄死。
- 1945年2月:戦争敗北の流言が広まり東京で1月以来40余件が送検。
- 1945年3月1日:鹿児島2区選挙無効事件
- 1945年8月15日:昭和天皇が降伏文書の調印を予告。
- 1945年9月2日:日本政府が降伏文書に調印。連合国軍による占領が開始。
- 1945年9月10日:GHQが検閲を始める。
- 1945年9月19日:GHQ、プレスコードを指令。
- 1945年9月26日:三木清の獄死。
- 1945年9月27日:GHQ、日本政府による検閲を停止させ、新聞等を自らの支配下に置く。
- 1945年10月4日:GHQ/SCAP、政治・信教・民権の自由制限撤廃の覚書発表。治安維持法廃止指令。
- 1945年10月10日:政治犯約3000名釈放。
- 1945年10月15日:治安維持法・治安警察法・思想犯保護観察法など廃止。特高警察官罷免。
参考文献
脚注