戸田村 (静岡県)
戸田村(へだむら)は、かつて静岡県田方郡にあった村。2005年(平成17年)4月1日に沼津市に編入合併し、戸田村は廃止された。 地理
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![]() 隣接する自治体歴史
ヘダ号![]() →「エフィム・プチャーチン」および「君沢形」も参照
ヘダ号は、戸田村に感謝し命名された日露合同で造船された西洋式帆船の船名。 1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震によって伊豆半島は津波の被害にあった。この時、ロシアの海軍中将であるエフィム・プチャーチンは日本との国交樹立交渉のため、フリゲート「ディアナ号」(2000トン級)にて来日し、下田に停泊していた。津波によりディアナ号は直撃を何度も受け、半日もの間激しく湾内を旋回した後、沈没は免れたが、大破した。 ディアナ号は破損した船体を修復すべく、幕府の許しを得て、戸田村へ向かったが、航行中に強風と大波にあい1855年1月15日(安政元年11月27日)に田子の浦沖で座礁し、1855年1月19日(安政元年12月2日)に沈没する。幸いにプチャーチンと乗組員は、大地震の被災者でもある地元の人々の協力により救助され、宮島村(静岡県富士市)に上陸する。 プチャーチン使節団の応接掛であった川路聖謨も、ただちに救難対策を講じた。この時、ロシア人一行は、自身のおかれた状況も顧みず、献身的に救助してくれた地元の人々に対し大いに感謝したと伝わっている。 日露和親条約締結後、プチャーチンは帰国のための船の建造を幕府に願い出る。その申し出は許可され、戸田村・牛ケ洞にて帆船の建造が始まる。日本人は官民合同で300人と、ロシア人500人の計800人に上り、日本史上初ともいえる日露合同の造船が行われた。 日本人とロシア人の言葉の壁や、西洋式の帆船であるための資材の調達や専門技術者の不在など、数々の問題はあったが、日露双方が一丸になって取り組み、着工から3ヶ月という短期間で、2本のマストを備えた小さな帆船が竣工する。プチャーチンは、村民への感謝をこめてこれを「ヘダ号」と名付けた。「ヘダ号」は無事、ロシアのニコライエフスクまで航行し、プチャーチンたちは3年ぶりに祖国に帰還した。 1856年(安政3年)9月に日露友好のシンボルとなった「ヘダ号」は日本に返還されるが、戊辰戦争の局面の箱館戦争で官軍に対し使用されたのを最後に、その記録は途絶えており、行く末の詳細は、わかっていない。 戸田村では、ヘダ号の同型船である君沢形の量産が行われ、日本の造船技術の発展に大きく寄与した。 市町村合併1963年(昭和38年)と1966年(昭和41年)の2度、沼津市から市町村合併の打診があったが、合併協議会の設置には至らなかった。平成の大合併においては、2002年(平成14年)より田方郡のうち5町1村(ほかに修善寺町・土肥町・天城湯ヶ島町・中伊豆町・大仁町)で合併する方針で検討を進めたが、住民全戸アンケートでは沼津市との合併が優勢であったために紛糾した。田方郡南部の法定合併協議会への参加は保留となり、2003年(平成15年)4月の統一地方選挙を経て、6月30日に沼津市に対し法定合併協議会設置の要望書を提出。同年12月15日より沼津市・戸田村合併協議会が設置され、2004年(平成16年)8月30日に合併協定書に調印、県議会議決や県知事決定を経て、総務大臣告示により2005年(平成17年)4月1日に沼津市へ編入された[1]。 産業世界最大の現生節足動物であるタカアシガニが戸田の名物である[2]。 また、橘の日本最大の自生地でもある[3]。 ![]() 漁業![]()
教育戸田村に高等学校はなかった。公立高校では静岡県立土肥高等学校に進学する生徒が多く、その他には静岡県立沼津商業高等学校、静岡県立韮山高等学校、静岡県立修善寺工業高等学校、静岡県立田方農業高等学校、静岡県立三島北高等学校、静岡県立三島南高等学校、静岡県立焼津水産高等学校などに進学する生徒もいた[4]。私立高校では加藤学園高等学校、日本大学三島高等学校などが多かった[4]。 小学校
中学校![]()
図書館
![]() 名所・旧跡・観光スポット名所・旧跡![]()
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観光スポット![]() 文化財
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![]() 姉妹都市脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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