新井有貫
新井 有貫(あらい ありつら/あらい ゆうかん、1849年12月24日(嘉永2年11月10日) - 1909年(明治42年)12月1日)は、幕臣、日本の海軍軍人。運用、航海の大家で三浦功(以下「三浦」)とともに海軍士官の目標とされる存在であった[1]。旧名は鐘吉。最終階級は海軍中将。墓所は青山霊園。 生涯![]() 幕臣出身[2]。江戸幕府御船方[1]の経歴を有し、1872年(明治4年)12月19日、海軍兵学寮13等出仕として海軍に入る。兵学寮は新井に船具運用を担当させる目的であった[3]。山本権兵衛が幼年生徒初期、上村彦之丞、日高壮之丞が壮年生徒初期として在学していた時期である。初期の兵学寮では学科教育とともに、英海軍から招聘したダグラス少佐らの実地教育が重視され、同年12月15日に「筑波」が兵学寮所属練習船となる。新井は同艦乗組みとなり、長期にわたり在校生の指導にあたったのである。同艦は1875年(明治8年)に最初の遠洋航海にも使用され[4]、帰国後は西南戦争に従軍した。1884年(明治17年)に同艦艦長心得となり、翌年「日進」艦長(少佐)に転じるまで「筑波艦」勤務が続いた。少尉から大尉時代の同僚に幕臣出身の三浦がいる。 「千代田」回航委員長、「浪速」艦長などを務め、「扶桑」艦長として日清戦争に従軍。黄海海戦では連合艦隊本体の殿となる同艦を指揮した。「扶桑」は最速13ノットで参戦した日本海軍の艦艇中「赤城」に次いで2番目の劣速であった[5]が、清国北洋艦隊の主力艦である「定遠」の突撃をかわし、同艦に砲撃を加え損害を与えた[6]。 戦後は横須賀鎮守府軍港部長などを経て1898年(明治31年)少将へ昇進。日露戦争では大本営附となる。日本は戦利品となった露国の沈没艦船の引上げを図り、まず仁川沖海戦で自沈した露国防護巡洋艦「ヴァリャーグ」の引上げを行った[7]。未だ戦中の1905年(明治38年)3月9日に始まった引上げ作業に責任者として成功した新井に対し、明治天皇は勅語を下している[8]。「ヴァリャーグ」は日本海軍籍の「宗谷」となり、第一次世界大戦期に露国に返還された。 同年9月の中将進級以後、待命、休職、予備役の発令日はすべて三浦と同日であった。 年譜![]()
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栄典
出典
参考文献
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