新宿劇場
新宿劇場(しんじゅくげきじょう)は、かつて東京・新宿にあった映画館である[1][2][3][4]。1929年(昭和4年)にマキノキネマ直営(経営マキノキネマ関東配給所)の映画館として、新宿駅東口に新築・開業した(第一次)[1][2][4]。 第二次世界大戦後、1953年(昭和28年)に新宿・歌舞伎町に新築・開業した同名の映画館(第二次)についても本項で詳述する[5][6][7][8]。 沿革
データ第一次北緯35度41分24.93秒 東経139度42分4.47秒 / 北緯35.6902583度 東経139.7012417度 第二次北緯35度41分44.71秒 東経139度42分5.22秒 / 北緯35.6957528度 東経139.7014500度 概要第一次![]() 1929年(昭和4年)7月25日の牧野省三の没後の同年12月末、マキノ・プロダクション直営の東京の映画館として、東京府豊多摩郡淀橋町角筈1番地(現在の東京都新宿区新宿3丁目37番地12号あたり)に新たに建設され、開館した[1][2][4]。開館番組は、同社御室撮影所が製作した『続影法師 狂燥篇』(監督二川文太郎)、『四谷六法 白柄組』(監督中島宝三)で、同年12月31日に同館を全国公開の一番手として公開した[12][13]。同2作は同社の正月番組であり、翌1930年(昭和5年)以降、同館は、同社のフラッグシップ館となり、ほとんどの作品を全国公開の一番手として公開した[14][15]。『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同年当時の同館は、当時の観客定員数は458名、興行系統はマキノ、経営は「マキノ關東社」(マキノキネマ関東配給所、代表阪間好之助)、支配人は高橋秀忠であった[1]。 開館当初の新宿駅近辺は、同じ角筈地区に洋画の独立系ロードショー館として知られる武蔵野館(現在の新宿武蔵野館)、東亜キネマ・帝国キネマ系統の独立館の新生館、西口の柏木地区に当時日活系統の独立館だった成子不二館(のちの成子映画劇場)、と同館を含めて4館しか存在していなかった[1]。同館が新築・落成する1年前の1928年(昭和3年)12月、武蔵野館が新宿通り沿いから現在の場所に移転、新築・落成しており[16]、新宿劇場はこれに対して対抗的な立地を選んだ。『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同年6月現在、東京市内には、浅草公園六区の千代田館(阪間商事経営)、鳥越の鳥越キネマ(島崎大作個人経営)、日本橋の魚河岸キネマ(阪間商事経営)、銀座のシネマ銀座およびグランドキネマ(いずれも大蔵興行部経営)、月島の築島館(鈴木幸八個人経営)、千駄木の芙蓉館(阪間商事経営)、小石川の傳通館(加藤作治個人経営)、荒木町の四谷日活館(日活経営)、麻布の六本木松竹館(大蔵興行部経営)、芝の愛宕キネマ(高橋美家太郎個人経営)と芝浦キネマ(阪間商事経営)、本所の業平座(阪間商事経営)等があった[17]。同年7月には、浅草公園六区の遊楽館がマキノ系統の封切館に加わっている[4]。 しかしながら、省三の没後の新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する[18]。同年4月24日に同館が全国公開の一番手として公開した『京小唄柳さくら』(監督金森萬象)が、同社の最後の製作物となった[15]。 マキノ・プロダクション解散後の同館の経営主体については不明であるが、同年6月26日には帝国キネマ演芸が製作・配給した『愛すべく』(監督鈴木重吉)、同年翌月の7月14日には、不二映画社が製作・配給した『緑の騎手』(監督中村能二)がそれぞれ全国公開の一番手として公開・上映された記録が残っている[19][20]。 その後、第二次世界大戦が開始され、1942年(昭和17年)には戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給により、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同年当時の同館は、当時の観客定員数は438名、経営は鈴木幸八の個人経営、支配人は藤田一郎、白系の配給系統に入った[3]。鈴木幸八は、大都映画設立時の専務取締役であり[21]、同年当時は、月島の築島館・築島映画劇場、木場に木場東宝映画劇場(かつての木場電気館)を同館のほかに経営していた個人館主である[3][22][23]。『映画年鑑 昭和十八年版』によれば、1943年(昭和18年)には、同館の経営が鈴木から田村益喜に変更になっている[23]。戦局が深まった1944年(昭和19年)4月、第二次強制疎開により閉館になり、取り壊された[9]。 1999年(平成11年)、跡地に新宿野和ビルが開業し、現在に至る[10]。同地は新宿武蔵野館を経営する武蔵野興業が所有し、同ビルに賃貸している[10]。 第二次![]() 第二次世界大戦後、かつて東京府立第五高等女学校(移転して現在の東京都立富士高等学校)のあった地区(歌舞伎町)を開発することになり、林以文が1947年(昭和22年)12月に新宿地球座を開館している[5]。翌1948年(昭和23年)5月に林が設立した惠通企業(現在のヒューマックス)が、1953年(昭和28年)1月2日、新宿区歌舞伎町879番地(現在の歌舞伎町1丁目20番1号)に新たに建設され、開館したのが、戦後の「新宿劇場」(第二次)である[5][6][7][24][25]。当初は、演劇等の上演も行われ、古川ロッパらも出演した[6][7][25]。林以文は、地球座に着手した年の4月に、新宿ムーランルージュの再建を手がけてたが、1951年(昭和26年)5月には閉館している[5][26]。その2年後に新たに建てたこの新宿劇場の屋根には、開業当初はなかったが[7]、翌年には、新宿ムーランルージュの名物であったものを模した風車が取りつけられた[7][8]。やがて、洋画ロードショー館として定着した[7][8]。 新宿歴史博物館が公開している写真『歌舞伎町(コマ劇場、新宿劇場前)』に写る同館では、『恋人たち』(監督ルイ・マル、1959年4月24日日本公開[27])、『狂った本能』(監督エドモン・T・グレヴィル、1959年6月10日日本公開[28])が上映され[8]、右の写真では、『墓にツバをかけろ』(監督ミシェル・ガスト、1960年1月29日日本公開[29])、『学生たちの道』(監督ミシェル・ボワロン、1959年12月1日日本公開[30])が上映されている。これら4本はいずれも配給は映配(代表塩次秀雄)であり、独立系のヨーロッパ映画配給会社の作品が多く上映された[27][28][29][30]。 また1960年代には、70mm映画の設備も導入して、「偉大な生涯の物語」等の大作も上映していた。 1970年(昭和45年)閉館。1971年(昭和46年)10月、跡地に新宿ジョイパックビルが建った[5]。のちにヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町と名称を変更した[5]。 先行して開業し同館に隣接していた新宿地球座、その後継館であった新宿ジョイシネマ(歌舞伎町1丁目21番7号)は、1984年(昭和59年)以降に最大5スクリーンを誇ったが、最終的に3スクリーンとなり、2009年(平成21年)5月31日に全スクリーン閉館、歌舞伎町地区にヒューマックスが経営する映画館はすべて消滅した[24][31]。 →「新宿ジョイシネマ」も参照
フィルモグラフィ日本映画データベースに掲載された作品のうち、同館が全国公開の一番手として位置し、公開館として特筆して記録されている全作品の一覧である[14][15]。「全国公開の一番手」以外の位置づけでの上映作品は、膨大であるため省略した。公開日の右側には、東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[32][33]。 マキノプロダクション御室撮影所特筆以外すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノキネマ」であり、すべてサイレント映画、1929年末 - 1931年の間に「新宿劇場」で公開された作品である[14][15]。
マキノ以降特筆以外はすべてサイレント映画である。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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