日本婦人問題懇話会
日本婦人問題懇話会(にほんふじんもんだいこんわかい)とは、「各専門分野の婦人をできるだけ多く集め、客観的な立場で総合的に研究し、社会の進歩と婦人の地位の向上をはかる」婦人問題の総合研究機関として1961年9月、山川菊栄、田中寿美子、石井雪枝、伊東すみ子、渡辺美恵、菅谷直子らの呼びかけで設立準備委員会が発足。1962年4月に発会に至った女性の研究活動、交流団体である(発足時は婦人問題懇話会 1984年、日本婦人問題懇話会と改称)[2]。 沿革設立の経緯1961年9月30日、第1回準備会が開かれた。参加者は石井雪枝、伊東すみ子、田中寿美子、渡辺美恵、菅谷直子ら6名。10日後に第2回、11月18日に第3回準備会が開かれ会の骨格が決まった。会の性格は、調査研究を主目的とする研究団体であること、会員の資格は厳しい制限を付けず、憲法改悪に賛成する者のみ除く、とした。また分科会として①家庭婦人、②婦人労働、③農村婦人、④婦人運動・女性史、⑤社会福祉・社会保障の5つとした。山川菊栄は「婦人問題とは何か、基本問題が等閑に付されている。これを研究する必要があると考えたのでこの会の結成を思い立った。また専門家と活動家、職場婦人と家庭婦人の話し合いの場がないので、その間のギャップを埋め、研究成果を政治に反映させ、婦人の地位を高めたい」と、経過報告で述べた[2]。 1962年4月14日、衆議院第2議員会館で発会式を行った[2][1]。会員は総勢47名、幹事として、赤松良子、伊東すみ子、木全ミツ、島田とみ子、田中寿美子、渡辺美恵が選出され、山川菊栄は婦人労働分科会に属することとなった[2]。 初期の活動・会報の発行各分科会ともに活発な活動を展開させたが、特に初期は、赤松良子、樋口恵子らが中心の家庭婦人分科会の活動が注目を集めた。1963年には、共働きをテーマにした『ビジネスマダム 共かせぎ百科』(田中寿美子編)を読売新聞社出版局から刊行。さらにこれがTBSでテレビドラマ化されるなど話題を呼んだと樋口恵子は回想している[3]。 活発な活動を報告する媒体としてまずパンフレット型会報、No.1 - No.3(1963年)、No.4 - No.9(1964年)、No.10 - No.12(1965年)が発行された[4]。 その後、雑誌型の会報を59号、連続学習会として開催した「ウイメンズフォーラム」の報告書が5冊刊行されている。パンフレット型、雑誌型の会報の総目次が『日本婦人問題懇話会会報アンソロジー社会変革をめざした女たち』に掲載されている[5]。 以下、「 」は会報の特集タイトル ( )の数字は号数
活発な発信、学習の場の提供 会員を執筆者とする刊行物も多い。前景の『ビジネスマダム』に続いて、1968年3月会員有志により田中寿美子編『近代日本の女性像』(社会思想社)、1975年12月、会員有志により田中寿美子編『女性解放の思想と行動 戦前編』『女性解放の思想と行動 戦後編』(時事通信社)が刊行された。 外部に開かれた公開講座を1970年に「70年代の婦人問題」、テーマを”高度産業社会の婦人問題を中心に“として5回連続で実施。1984年に「ウイメンズ・フォーラム84」(3回連続)、1985年に「ウイメンズ・フォーラム85」(3回連続)、1986年に「ウイメンズ・フォーラム86」(3回連続)、1990年に「ウイメンズ・フォーラム90」(3回連続)、1993年に「ウイメンズ・フォーラム93」(3回連続)を実施。ウイメンズフォーラムについては、翌年、報告書を刊行している[6]。 役員
発行物
脚注
参考文献
関連文献
外部リンク |
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