日野輝資
日野 輝資(ひの てるすけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての公家。日野家の第28代当主。官位は正二位・権大納言。唯心(ゆいしん)としても知られる。 藤原北家日野家庶流広橋家の出身で、権大納言・広橋国光の子。初名は広橋 兼保(ひろはし かねやす)または兼潔(かねきよ)といったが、後に本家筋の日野家を継いだ。 生涯弘治元年(1555年)、広橋国光の子として生まれた[1]。母は高倉永家の娘。 天文24年(1555年)9月、日野家の当主・日野晴光が薨去したものの、嗣子・晴資は早世してしまっており、後を継ぐべき子息がいなかった。そのため、広橋国光の子・兼保を擁する将軍・足利義輝と、飛鳥井雅綱の子・資堯[注釈 1]を擁する三好長慶との間で、後継を巡る争いが生じた[2]。 晴光の死後、日野家の領地は晴光の妻で義輝の乳母でもあった春日局(陽春院)によって管理されていたが、長慶が義輝の経済基盤を切り崩すため、九条稙通と組んで資堯を擁立したとする見方がある[2]。他方、義輝としても兼保を擁立することで、長慶の影響力が強まった公家衆を再編する意図があったとされる[2]。 結局、日野流の柳原資定や広橋兼秀(兼保の祖父)の賛同を得た義輝の意見が通り、永禄2年(1559年)4月23日に正親町天皇の承認によって、兼保の日野家相続が決定された(実家の広橋家は、弟の広橋兼勝が代わって相続した)。兼保は日野家を継承すると、代々の当主(嫡子)の慣例通り、将軍家の一字(義輝から「輝」の字)を与えられて、輝資と改名した[2]。 輝資は昵近公家衆として、義輝の弟・足利義昭に仕え、永禄13年(1570年)4月には飛鳥井雅敦と共に金ヶ崎の戦いに従軍した。 元亀4年(1573年)7月、義昭が織田信長に対して挙兵すると、輝資もこれに従った。義昭が巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、輝資は奉公衆の三淵藤英、政所執事の伊勢貞興、同じく昵近公家衆の高倉永相などと共に二条御所を任された。輝資らは籠城したものの、織田軍に御所を囲まれると、藤英を一人残して降伏して退城した。 天正2年(1574年)3月26日、輝資は正親町天皇の勅使として、飛鳥井雅春(雅清)と共に織田信長の下に訪れ、蘭奢待切り取りの勅許の旨を伝えた。 天正4年(1576年)2月1日、輝資は烏丸光宣や広橋兼勝らと共に、山科言継・言経父子に同行し、村井貞勝を訪問した。 天正9年(1581年)2月28日、正親町天皇の御前で信長が行った京都御馬揃えにおいて、輝資は公家衆の一人として参加している。 慶長7年(1602年)1月、近衛信尹が輝資に「日野家は九条家の家来である」と述べたことについて、輝資は家来ではないと反論し、論争になった[3]。そのため、嫡子・資勝と共に朝廷への出仕を止められ、京都を出奔した[1][3]。2ヵ月後、徳川家康の取り計らいにより、京都に戻る。 慶長11年(1606年)5月29日、輝資は家康から寸白の薬の膏薬を与えられた[4]。 慶長12年(1607年)5月、輝資は娘・輝子の死去をきっかけとして、出家して唯心(唯心院)と号した[1]。以後、 駿府に下向し、家康に仕えることになり、慶長18年(1613年)には家康から近江国蒲生郡清水脇村などにおいて1,033石4斗余を与えられた[1]。 元和2年(1616年)4月、家康が死去すると、輝資は江戸に下向し、徳川秀忠に仕えた[1]。 元和9年(1623年)6月、輝資は秀忠の上洛に従って、京都に戻った[1]。 閏8月2日、輝資は薨去した[1]。 人物
日記「輝資卿記」『輝資卿記 付 雅継卿記』(田中暁龍 編、宮帯出版社、ISBN:978-4-8016-0279-3)。慶長10~16年の日記。 系譜
脚注注釈出典参考文献
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