明武谷力伸
明武谷 力伸(みょうぶだに りきのぶ、1937年4月29日 - 2024年3月10日)は、北海道阿寒郡阿寒町(現:北海道釧路市)出身の元大相撲力士。本名は明歩谷 清(みょうぶだに きよし)[1]。最高位は東関脇。 来歴1937年4月29日に、北海道阿寒郡阿寒町(現:北海道釧路市)で開拓農家を営む家に三男として生まれる。 彫りの深い顔立ちと毛深い筋骨隆々とした体躯から当時当地に数多く残っていたアイヌの血を引くと考えられている[2]。浅草寺の吽形像のモデルは明武谷である[3]とされ、デイリー新潮にも「いまも浅草を訪ねたら、若き日の明武谷の面影に会うことができる。」との記述がある[4]。 小学6年生で既に身長が176cmに達しており、さらに力が強かったことで両親から家業を手伝わされたが、清少年は家業を手伝うのが大嫌いで、その代わりに次第に力士を志し始めるようになった。1953年のある日に羽黒山政司・吉葉山潤之輔一行が地元へ巡業に来た際に、吉葉山と親しかった郷里の元三段目力士と共に宿舎を訪問し、ちゃんこを御馳走になったことで喜んで実家へ戻り、両親に報告して入門を打ち明けた。しかし両親からは大反対されたことで対立したが、通っていた雄別中学校の校長が「絶対に大物になるから、3年以内に(関取)昇進出来なかったら身の振り方を善処する」と両親を説得し、高島部屋へ入門、1954年3月場所で初土俵を踏んだ。角界入りしたのは、長身過ぎて農作業には不向きであるという本人の判断もあった[5]。 高島部屋へ入門してからしばらく経ったある日、吉葉山が現役中に設立した「吉葉山道場」(後の宮城野部屋)へ移籍した。中学の校長が両親に約束した「初土俵から3年」という約束の期限に達した1957年3月場所後に両親が吉葉山道場へ訪れて帰郷を命じるも、師匠の吉葉山が「横綱になった私も関取昇進を決めるまで4年かかりましたから。」と説得して1年の猶予を両親に求め、これにより続投を許された。11月場所で新十両昇進を果たし、1959年7月場所で新入幕を果たした。この場所は7勝8敗と負け越し、1場所で陥落したものの、3度目の入幕後は幕内に定着した。気の弱さから取組・稽古などへの積極性に欠けていたが、周囲からの忠告を受け、さらに部屋頭としての責任も感じるようになってからは自分にも若い者にも厳しくなった。 1961年9月場所では場所後に横綱へ昇進する大鵬幸喜と柏戸剛との両大関と優勝決定巴戦を行い[1]、幕内最高優勝こそ果たせなかったものの敢闘賞を受賞する活躍を見せた[6]。三役・三賞受賞の常連として大関候補と目されたが、ちょうどその頃は同系統に三役以上に番付を得る力士が自身以外にいなかった[7]ため系統別総当たり制の下で不利に立たされ[8]、昇進を期待された1965年3月場所の初日と2日目を連続して勇み足[9]で落として失速するなど、結局昇進の夢は叶わなかった。 筋肉質の長身と彫りの深い顔は外国人女性に人気があった[1]。腰が高いので立ち合いは遅かったが、師匠からは早く立つことよりも右上手を取ることだけを研究しろと指導され[10]、右上手からの怪力と長身を生かした吊り・上手投げに磨きをかけた。特に吊りの強さは定評があり、幕内勝利414勝のうち129勝を吊り出しで決めて起重機の異名を取っている。1965年7月に大鵬を吊り出しで破っているが、大鵬が幕内で吊り出されたのはこの時だけである。また、1964年5月から1965年1月の五場所間は大鵬に4勝1敗と圧倒し、大鵬キラーと呼ばれた。一方、柏戸に対しては優勝決定戦を含む19戦全敗と全く歯が立たなかった。 1967年頃までは右上手を取ると力が出たが、それ以降はがっぷり四つになっても強くなくなり、外掛けを喰らって敗れることが増えた[11]。1968年1月場所では初土俵から1000回連続出場の記録を達成したことで協会から特別表彰を受けた[1]。1969年11月場所を最後に健康上の理由で現役を引退[5]して年寄・中村を襲名、宮城野部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たったほか、勝負審判も務めた。しかしキリスト教系の新興宗教「エホバの証人」に入信して以降は、相撲は神道(エホバの証人が「偽りの宗教」と見なしている宗教)の影響が切り離せず、信者として親方業は継続できないと考えるようになり[5]、1977年1月場所を最後に廃業した[5]。その後はビル清掃業で働きながら布教活動を行っていた[5]。 幕内の優勝決定戦に出場経験のある力士の中で、引退までに幕内最高優勝を一度も果たせなかった力士は13人いるが、このうち決定戦に複数回出場した経験を持つのは明武谷と双羽黒の2人のみである。 大鵬への国民栄誉賞授与が検討されていた2013年2月当時、「巨人、大鵬、卵焼き」の流行語が生まれた1960年代に少年時代を過ごした安倍晋三は個人的な感情として、「卵焼きは好きだったが、巨人も大鵬もアンチだった。“大鵬キラー”と言われた関脇・明武谷は背が高く細くて、私もやせっぽちの子供だったので応援していた」と述懐した一方で「アンチでも大鵬は気になる。大鵬との取組を手に汗を握って応援していた」と明かした[12]。 2024年3月10日、老衰のため死去[13]。86歳没。 主な成績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴
11度もの改名歴の中で「吉葉洋」を名乗っていた時期(1963年1月場所 - 同年7月場所)を除いた10度は全て本名と同じ読みで、その10度の改名歴でも「明武谷」または「明歩谷」と一文字違いに過ぎない。改名歴の大半が本名に準ずるという意味では、本名力士の一つの資料になり得ると考えられる。また、「11度もの改名」は星岩涛祐二(9度)を上回るが、明武谷の場合は上記で述べた「吉葉洋」以外は全て下の名前、または本名(明歩谷)から「明武谷」と一文字変更した程度で、このことから一般には明武谷の改名歴は幕内経験者の最多改名記録として認められていない。2013年現在でも最多改名記録は星岩涛祐二の9度である。 脚注
関連項目 |
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