朝鮮半島の人口推移(ちょうせんはんとうのじんこうすいい)では、古代から近代にかけての朝鮮半島の人口推移について述べる。
概要
漢による統治
朝鮮半島の人口統計上、もっとも古い資料としては「漢書地理志」「続漢書郡国誌」「晋書地理志」[注釈 1]の戸口記録がある。
楽浪郡と玄菟郡は現在の北朝鮮の領域に相当するため、林玲子(2007)は北朝鮮と韓国の人口比(1950〜2000年)に着目し、南部に北部の2倍分布していたと仮定して、紀元2年の朝鮮半島の人口を180万人と推計した。[1]
漢時代の戸口記録[1][2]
時代 |
紀元 |
戸数 |
人口 |
史料
|
楽浪郡(現在の平安道、黄海道、京畿道)
|
元始2年 |
2年 |
62812 |
406748 |
漢書地理志
|
永和5年 |
140年 |
61492 |
257050 |
続漢書郡国誌
|
太廉初年 |
280年 |
8600 |
- |
晋書地理志
|
玄菟郡(現在の咸鏡道)
|
元始2年 |
2年 |
45006 |
221845 |
漢書地理志
|
永和5年 |
140年 |
1594 |
43163 |
続漢書郡国誌
|
太廉初年 |
280年 |
3200 |
- |
晋書地理志
|
合計
|
元始2年 |
2年 |
107818 |
628593 |
漢書地理志
|
永和5年 |
140年 |
63086 |
300213 |
続漢書郡国誌
|
太廉初年 |
280年 |
11800 |
- |
晋書地理志
|
三韓時代
三韓〜馬韓・辰韓・弁韓(0〜346年)
朝鮮半島北方が中国により統治・侵略を繰り返されていた時代、南方にもいくつかの国があった。
それらは、その時々の中国王朝に朝貢しつつも韓族の統治が続いていた。
特に馬韓は後の百済に相当する地域を治め、その国は54を数えた。また弁辰は合わせて24カ国であったという。(三国魏志東夷伝)
同時代の口数の推計は、『三国遺事』2巻 駕洛國記の「百姓凡一百戸。七万五千人」から「凡一百戸」を「九千百戸」の誤写として口数を一戸8.2人とする説がある。
また7世紀(百済滅亡時)までの700年で同地域であった馬韓54万戸から百済76万戸に増えたと捉え、かつ同時代の口数を前述の一戸8.2人として、年0.058の人口増加率を求めた場合、1906年の人口から逆算する三韓時代の朝鮮半島の全人口は、482万人。[3]
三国〜高麗時代
高句麗・百済・新羅(313〜936年)
「東史補遺」「三国遺事」に断片的な人口の記録が残っている。
高句麗・百済の滅亡時に数字が不自然に跳ね上がっており、これらは三国合わせての数字と捉え全土の人口は380万と推計する説がある。
前述の口数一戸8.2人を用いると、『三国遺事』1巻 紀異第一 七十二国「七十八国各万戸」を用いて、78万戸x8.2=640万人とする説もある。
なお、前述の年0.058の人口増加率により1906年の人口から逆算する三国時代の朝鮮半島の全人口は、675万人。[3]
三国時代の人口記録[1][4]
時代 |
紀元 |
東史補遺 |
三国遺事 |
推計人口[注釈 2]
|
高句麗
|
6代王太祖 |
- 121年 |
3万戸 |
|
150000
|
19代広開土 |
392 - 412年 |
21万508戸 |
|
1052530
|
滅亡時 |
668年 |
69万6000戸 |
|
3480000
|
百済
|
全盛期 |
500 |
15万2200戸 |
15万2300戸[5] |
761000
|
滅亡時 |
661 |
|
76万戸[6][7][8] |
3800000[9]
|
新羅
|
慶州、全盛時 |
7 - 8世紀 |
|
17万8936戸[10] |
894680
|
統一新羅時代(660〜935年)
正倉院所蔵の「中倉59 華厳経論帙」の内張紙にあった新羅の公文書[11](755〜867年とされるが[12]、現在は815年説と695年説が有力[11])に4つの村落の戸数や人口について3年間の推移が記録されている。
戸数は43戸、総人口は442人(男子194、女子248)で奴婢は25人とある。[13]
戸数あたり10.2人であることから、前時代資料の戸数を参考にすれば推定人口は760万人である。
西原京近くの村落人員構成(一部)[14]
村名 |
周長 |
田合計 |
人口
|
沙害漸村 |
5725歩 |
165.2結 |
142名
|
薩下知村(と利何木杖谷の埋立地) |
8770+4060歩 |
183.8結 |
125名
|
某村 |
欠落 |
欠落 |
69名
|
西原京某村 |
4800歩 |
107.5結 |
106名
|
沙害漸村の詳細 (表中の未成年は15歳以下)[15]
人口 |
成人男(+未成年+老人等) |
成人女(同) |
合計 |
内奴婢(男、女)
|
|
29(+32+1) |
42(+36+2) |
142 |
うち8(2、6)
|
計 |
男62名 |
女80名 |
合計142名 |
なお戸数11戸
|
子供 |
3年間の出生(男、女) |
死亡(同) |
|
内死亡奴婢(同)
|
|
13名(5、8) |
4名(3、1) |
|
1名(1、0)
|
高麗時代(936〜1392)
戸籍を取ったという記録[注釈 3]があるが具体的な数字はない。高麗史にあるように16歳以上は成人扱いで60歳を超えると賦役免除されたのは前後の時代で共通であった。加えて戸籍申告不正・年齢詐称に罰則を規定していることから逆説的に賦役逃れが横行しており数字には不備が多かったと推測されている。[3]
人口の推定方法は前後の人口記録を参考に平均人口増加率(0.0518%)[3]により求めるもので937年ごろの推定人口は780万人。
李氏朝鮮
1395年〜1905年までは李氏朝鮮による「戸籍帳籍」が取られた。しかし当初は高麗時代のものを踏襲するしかなく内情不安で人民の逃亡・流入が相次いだため、1401年ごろから戸籍制度が本格的に整備された。[17]
太祖〜太宗 (1392〜1418年)
李氏朝鮮による調査は徴税賦役を目的としていたが、男性の虚偽申告だけでなく身分や収穫率による軍役とは無関係な一部の女子、賎・奴などの疎外層を申告から除外したり隠す行為に対しても戸主(申告者)と地方官に罰が与えられた。[18]「隣保制度」[19]により10戸あるいは34戸を1隣保として、その長が報告する義務を課すなどしたが、それでも3年に一度の戸籍整備はなかなか進まなかった。
より細かい5戸単位で報告させる「五家統制」や、戸別の構成を貼り出させる「號牌制」など統制を強める策が講じられたが賦役を逃れようとする人民の抵抗は激しく不正も横行した。
記録によれば太宗4年 (1395年)の戸数は153,403戸とされ、人口は322,746人[20]だが、これは京五部が欠落している上、かつ成人男子のみの可能性あり。[20]
よって前述の三国時代の年平均人口増加率と実数に近いとされる1906年人口から1392年推定人口は991万人。[3]
世祖以降 (1419〜1906)
1455年以降、ようやく「経国大典」が編纂され「戸典」(戸籍条 1460年)が完成した。1592年の帳籍「山陰戸籍」では男女の奴婢、逃亡者に至るまで記録があり徹底されたことがわかる。それでも全土の数字が出たのは1639年以降でたびたび自然増ではない伸びを示すため、登録方法による揺れ(軍役を目的とする「號牌制」が廃止と復活を繰り返しているなど)があったと考えられる。その上で李氏朝鮮時代の1800年代の人口は最高値である1807年の7561403人[20]から推計値750万人[21]とされてきた。[1]
ただし日本による以降の調査で人口が急増していることからも実際は李氏朝鮮末期でも1000万人前後の人口があった可能性はある。ちなみに前述の1906年人口を基準とした三国時代の年平均人口増加率による1543年の推定人口は1072万人[3]である。
日本統治下朝鮮
1905年第二次日韓協約によって大韓帝国は日本の保護国になる。これ以降は日本(韓国統監府および朝鮮総督府)による調査。1910年に韓国併合。
朝鮮半島の人口推移
[22]
[3]
西暦
|
居住朝鮮人
|
1904年比[23]
|
日本政府統計[24]
|
1753
|
730万人[22]
|
102
|
|
1850
|
750万人[22]
|
105
|
|
1864
|
802万人
|
113
|
|
1876
|
804万人
|
113
|
|
1885
|
897万人
|
126
|
|
1891
|
788万人
|
110
|
|
1904
|
710万人
|
100
|
|
1907
|
1167万人
|
164
|
|
1910
|
1313万人
|
184
|
13,128,780
|
1911
|
1383万人
|
194
|
|
1912
|
1413万人
|
200
|
14,566,783
|
1913
|
1517万人
|
213
|
|
1914
|
1562万人
|
220
|
15,620,720
|
1915
|
1596万人
|
224
|
|
1916
|
1631万人
|
229
|
16,309,179
|
1917
|
1662万人
|
234
|
|
1918
|
1670万人
|
235
|
16,697,017
|
1919
|
1678万人
|
236
|
|
1920
|
1692万人
|
238
|
16,916,078
|
1921
|
1706万人
|
240
|
|
1922
|
1721万人
|
242
|
17,208,139
|
1923
|
1745万人
|
245
|
|
1924
|
1762万人
|
248
|
17,619,540
|
1925
|
1854万人
|
261
|
|
1926
|
1862万人
|
262
|
18,615,033
|
1927
|
1863万人
|
262
|
|
1928
|
1867万人
|
262
|
18,667,334
|
1929
|
1878万人
|
264
|
|
1930
|
1969万人
|
277
|
19,685,587
|
1931
|
1971万人
|
277
|
|
1932
|
2004万人
|
282
|
20,037,273
|
1933
|
2021万人
|
284
|
|
1934
|
2051万人
|
288
|
20,513,804
|
1935
|
2125万人
|
299
|
|
1936
|
2137万人
|
300
|
21,373,572
|
1937
|
2168万人
|
305
|
|
1938
|
2195万人
|
309
|
21,950,616
|
1939
|
2210万人
|
311
|
|
1940
|
2295万人[22]
|
323
|
22,954,563
|
1941
|
2391万人
|
336
|
|
1942
|
2553万人
|
359
|
25,525,409
|
脚注
注釈
- ^ 「漢書地理志」2年10万7818戸62万8593人、「続漢書郡国誌」140年6万3086戸30万213人、「晋書地理志」280年1万1800戸[1]
- ^ 口数は戸数x5
- ^ 「州郡は毎年日を計し民を籍し戸部に貢す、凡て徴兵と懲役は戸籍を以て抄定す」[16]
- ^ a b c d e 「世界歴史人口推計の評価と都市人口を用いた推計方法に関する研究」林玲子(2007)
- ^ 金哲. 1965. 韓国の人口と経済. 岩波書店
- ^ a b c d e f g naver人口
- ^ 石南国. 1972. 韓国の人口増加の分析. 勁草書房
- ^ 『三国遺事』1巻 、紀異1、 下韓百済条 に「百済全盛之時十五萬二千三百戸」
- ^ 善生(1935)による、林(2007)の図では67万戸
- ^ 『旧唐書』4「顯慶五年八月庚辰条八月庚辰、蘇定方等討平百濟、面縛其王扶餘義慈。國分為五部、郡三十七、城二百、戶七十六萬」
- ^ 『三国遺事』2巻 、南扶余 前百済 北扶余条 に「百濟國舊有五部。分統三十七部、二百濟城、七十六萬戸。」
- ^ 林(2007)の図では3350000
- ^ 『三国遺事』1巻 、紀異1、 辰韓条 に
「新羅全盛時京中十七万八千九百三十六戸一千三百六十坊五十五里三十五金入宅」
- ^ a b “新羅村落文書 (写真複製)”. 学習院大学東洋文化研究所. 2021年3月10日閲覧。
- ^ 『第五十四回正倉院展』(2002年)p56
- ^ 「新羅、その千年の歴史と文化」2016p205慶尚北道
- ^ 「計量史研究14」1992p12新井宏:朝鮮の尺度変遷について
- ^ 『東京大学日本史研究室紀要 第七号』2003.3p90宋洗範:正倉院所蔵 「華厳経論帙内貼文書」(いわゆる新羅村 落文書)について
- ^ 「高麗史」食貨志(1451年)
- ^ 「惟我太祖、承高麗板蕩之余、慮民産之無恒、戸口之日縮、巌立戸籍之法、自成籍以後、逃亡流入入、及許接容隠之人、按律科罪、載諸元典」〜世宗実録 巻八十八 世宗十四年庚申(1440年)二月丙辰条
- ^ 『太祖実録』巻二十七 太祖ニ年癸酉(1393年)十一月己巳条
- ^ 太宗実録 巻十三太宗七年丁亥(1407年)正月甲戌条
- ^ a b c 善生永助『朝鮮の人口現象』朝鮮総督府1935年「第一章第一節 李朝500年間の戸口表」p6
- ^ McEvedy and Jones
- ^ a b c d “韓国・朝鮮 -03 人口(web archive)”. 田中裕一. 2021年3月10日閲覧。
- ^ 1904年の李氏朝鮮による調査人口を100として対比を示した。
- ^ 「日本長期統計総覧」総務庁統計局監修、(財)日本統計協会編集・発行