木曽川町黒田
木曽川町黒田(きそがわちょうくろだ)は愛知県一宮市の大字。木曽川町黒田と木曽川町黒田一〜十二ノ通りがあり、木曽川町の市街地である。 中世には交通の要衝として栄え、黒田宿(くろだのしゅく)と呼ばれる鎌倉街道(中世東海道)の宿場であった。戦国時代には黒田城が築かれており、山内一豊は当地の生まれとされる。 地理
小字「明治十五年愛知県郡町村字名調」による黒田村の小字は以下の通りである[5]。デジタル庁が公開する「アドレス・ベース・レジストリ」の町字マスターに収録されていない字は括弧書きとした[6]。また、「明治十五年愛知県郡町村字名調」と「アドレス・ベース・レジストリ」で表記が異なる場合、「明治十五年愛知県郡町村字名調」の表記を括弧書きとした。
「明治十五年愛知県郡町村字名調」に無く、「アドレス・ベース・レジストリ」に収録されている小字は以下の通りである[5][6]。
歴史![]() 中世には鎌倉街道の宿駅があって「黒田宿」(くろだのしゅく)と呼ばれた[7][8]。美濃国の墨俣宿(現在の岐阜県大垣市墨俣町)と尾張国の萱津宿(愛知県あま市甚目寺町)をつなぐ位置にあり[8]、南宿・北宿[7][8]あるいは下市場[8]という地名(小字名)が残るように栄えていたという。1190年には源頼朝が上洛の際に宿泊したという記録が『吾妻鑑』に見られる[7]。 同時に交通の要衝でもあり(東山道との分岐点であったという[7])、しばしば合戦場にもなった[7][8]。南北朝時代の1388年には、美濃土岐氏の内紛に関連し、土岐満貞を土岐詮直が当地で迎撃している[7]。 15世紀末には黒田城が築かれた。やがて黒田城には岩倉織田家に仕えた山内盛豊が入った。この盛豊の子が、のちに土佐藩主となる山内一豊であるとされる。 1590年には、一柳直盛が3万石の領主として黒田城主となった。直盛は関ヶ原の合戦で東軍につき、戦後の1601年に伊勢国神戸に移された。この一柳直盛の領国を「尾張黒田藩」ととらえる見方がある。直盛は、黒田の町を整備し、白山神社の再興を行った。一柳氏が去った後の黒田は清洲藩(尾張藩)松平忠吉の所領に組み込まれた。 1886年(明治19年)6月には村内に木曽川駅が開業した。熱心な駅の誘致活動が行われたという[9]。 近世には葉栗郡黒田村。1889年(明治22年)に町村制が施行された際に周辺の村と合併し、新たな「黒田村」の一部となる。1894年(明治27年)に黒田村は町制を施行して黒田町になる。1906年(明治39年)の町村の再編後、1910年(明治43年)に木曽川町と改称した。2005年(平成17年)に一宮市の一部となる。 世帯数と人口2020年(令和2年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移
交通鉄道道路
施設
観光名所・旧跡宗教施設寺院神社祭事・催事
有名人
その他日本郵便脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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