松尾城 (上総国)
松尾城(まつおじょう)は、現在の千葉県山武市松尾町にあった日本の城。明治維新期、柴山藩(松尾藩)によって築城に着手され藩庁も置かれたが、城は完成に至らぬまま廃藩置県を迎えた。「松尾」の名は、知藩事太田資美の旧領であった掛川城の別名に由来する。別名「太田城」。 明治2年(1869年)の版籍奉還後に着工された、「日本最後の城」[1]と呼ばれることのある城の一つである[注釈 1]。西洋式の稜堡式要塞様式の採用、藩庁と知事邸の分離など、他の城には見られない特異な形態を見せていたが、遺構はほとんど残っていない。 歴史→「松尾藩」も参照
柴山藩(松尾藩)は明治元年(1868年)、遠江国掛川藩主であった太田資美が、明治政府によって上総国武射・山辺郡内の領地に移転させられたことで成立した[注釈 2][1]。藩は武射郡柴山村(現在の千葉県山武郡芝山町)の観音教寺に仮藩庁を置き、柴山藩と称した[1]。 明治2年(1869年)6月、版籍奉還により、太田資美は知藩事に任命された。これを受けて、正式な藩庁を建設するため、同年9月より築城工事が始まった。築城地に選定されたのは、大堤・田越・猿尾・八田4か村[注釈 3]の入会地であった[1]。 翌明治3年(1870年)に藩庁と知事邸、および城下町が一応は完成[1]。藩の名称も柴山藩から松尾藩に改められた[1]。 しかしながら、城郭の全体は未完成のまま、明治4年(1871年)7月の廃藩置県をうけて松尾藩は廃止され、築城は中止された。松尾藩庁は引き続き松尾県庁として使われたが、同年11月には松尾県自体が木更津県に合併されて消滅した。廃城後、城内の建物や各所に払い下げられ移築された。現在も知事邸が匝瑳市内に、長屋門は山武市内にそれぞれ現存している。 構造・計画築城・設計の責任者は、藩勘定奉行の犬塚一郎治[1]。藩校の教授(算術稽古頭取)であった算学者の磯辺泰(1836年 - 1912年)が縄張を行った[1][2]。 函館五稜郭や、信濃国龍岡城などに見られる西洋風の稜堡式で、九十九里浜を望む木戸川東岸の台地上に築き、中央の最高地に藩庁を、土塁で区切った部分に太田家の家紋にちなんだ「桔梗台」と名付けた台地を造成し、藩知事邸を造り、長屋門を設置した。その他城内に兵舎や物産会所、米倉などを建設し、郭外には侍屋敷を町割りして土塁と堀で囲む計画となっていた。 現在城跡の敷地内の一部は住宅地となった。藩庁跡地は松尾自動車学校の敷地となっており、「松尾藩公庁跡」の碑が残る。 1959年(昭和34年)に、知事邸跡地に松尾町立(現・山武市立)松尾中学校が開校。1970年(昭和45年)には、城郭南端部を含む土地に千葉県立松尾高等学校が移転してきた。1994年(平成6年)に松尾中学校が改築される際に発掘調査が行われた。城下の侍屋敷の遺構や、土塁跡が多く現存している。 脚注注釈
出典関連項目外部リンク
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