松殿家
松殿家(まつどのけ)は、公家のひとつ。藤原氏北家嫡流の藤原忠通の次男・松殿基房を祖とする。戦国時代に絶家した。家名の由来は承安3年(1173年)12月、上西門院の御所であった松殿の跡地に邸宅を造営したことに由来する[1]。 本来であれば五摂家の近衛家・九条家に並ぶで摂関家であるが、摂関は2人のみであり、早期に没落した。その後は大体が参議、出世しても権大納言がやっとであった。
歴史
近衛流との対立基房は幼い頃からその才幹を認められ、摂関家嫡子と同様の扱いを受けていた[2]。父の後継者になるとも見られており、兄の近衛基実と対立していた[2]。基実が永万2年(1166年)に若くして没すると、左大臣であった基房が摂政となったが、父忠通の側近であった藤原邦綱によって基実の財産は未亡人である平盛子に渡って事実上平清盛の支配下となり、基房は所領や日記文書を相続することができなかった[3]。朝廷を掌握した平家と基房は殿下乗合事件など様々な軋轢を生んだ。 治承3年(1179年)、建春門院平滋子の死により後白河法皇と平清盛の対立が強まると、盛子の遺産相続問題で基房は後白河方につくことを鮮明にした。また、この頃基房は生母の父が太政大臣であるからという理由で、長男の藤原隆忠や次男の家房ではなく、わずか8歳の三男・松殿師家を後継者にしている。 激怒した清盛は治承三年の政変により法皇の幽閉と高官達の追放を断行した。基房は摂政を解官され大宰権帥へと左遷となり、36歳で出家した[4]。 その後基房は赦免されたが、寿永2年(1183年)7月の平家都落ちとともに復権に動き出す。木曾義仲が法住寺合戦で後白河を幽閉し、甥の摂政近衛基通が逃亡すると、基房は義仲に接近した。『平家物語』によれば基房は娘伊子を義仲の側室に差し出したとされるが、『玉葉』『愚管抄』には記述がない。基房は嫡子師家をわずか12歳で摂政・内大臣・藤氏長者に就任させ、朝廷の実質的な支配者となった[5]。 しかし数か月後には義仲が源義経に討たれ、師家は解官された。基房は後白河の不況を被って再び蟄居の日々に戻った[5]。師家はその後半世紀近く官職に就くことができずに失意の日々を過ごした(ちなみに師家は甥にあたる道元を養子に迎えようとして失敗している)[要出典]。その後九条兼実が建久七年の政変で失脚すると、基房は有職故実に通じた朝廷の第一人者として尊重され、後鳥羽天皇・源通親・近衛家実・九条良経などが教えを乞うた。師家の兄弟たちも上級公家として昇進しており、特に隆忠は弟である師家を官職の上で追い抜き、承元5年/建暦元年(1211年)まで左大臣を務めている。 基房が晩年に儲けた子である忠房も大納言まで昇進している。また師家の嫡男・基嗣は摂関家庶子並みの従五位下での叙爵であったものの、元久2年(1205年)には摂関家嫡子の待遇である五位中将に昇進している[6]。 嫡流の没落寛喜2年(1230年)に基房が没すると、松殿家は急激に衰退することとなる。寛喜3年(1231年)には忠房が師家との所領問題によって大納言を解任された[7]。 寛喜4年(1232年)3月、基嗣は安嘉門院邦子内親王の女房であった、平光盛の娘を拉致するという事件を起こす。基嗣は権大納言を解任され、師家も急いで上洛して謝罪したが、関白九条道家は「一門の恥辱」であるとして許さなかった[8]。このため基嗣の子孫は公卿を出すこともなく没落した[7]。 寛元4年(1246年)、九条道家・一条実経親子が失脚した時には忠房が次の摂関の候補者に挙げられた経緯[9]があり、松殿家が摂関家として存続する可能性も存在した[10]。 公家としては忠房の系統が存続した。しかし位こそは正二位に進むことはできても、官職は権中納言・参議がやっととなる。そして南北朝時代の松殿忠嗣(基房の玄孫)は二条良基の側近として活躍し、暦応3年(1340年)に44歳で従三位になると、6年後に参議、さらに延文2年(1357年)には権大納言に昇っている。だが、松殿家は後に南朝側へ離反し、南北朝合一後は再び衰退へ向かう。 衰退と断絶その後、永正5年(1508年)に忠嗣の玄孫にあたる松殿忠顕が従三位に叙せられて後に正三位参議となり、その子家豊が従五位上に叙された。その後の系譜は途絶えており、戦国時代中期には絶家したものと考えられている。 再興運動江戸時代に入ると松殿家を再興する動きがあった。寛永年間、九条幸家の三男道基が新たに朝廷より所領1000石を下賜(かし)されて松殿家を復興し、寛永11年(1634年)には幕府も再興の許可を与えた。また寛永18年(1641年)には道基一代は摂家としての待遇を与えることが内約されており、寛永19年(1642年)に従三位に叙されたが、正保3年(1646年)に嗣子無く薨去したため、再び断絶した。 また万治3年(1660年)には、八条宮智仁親王の皇子(広幡忠幸、後の清華家広幡家の始祖。)が臣籍降下する際、松殿家の再興も案の一つとして討議されている。 さらに下って明和2年(1765年)には、九条尚実の次男忠孝が九条家の分家として、清華家待遇となる松殿家を創設したが、これも明和5年(1768年)に嗣子無く没した。 『山階宮三代』の慶応4年(1868年)1月18日条によれば、新政府総裁有栖川宮熾仁親王のもとに九条尚忠五男忠善(幼少にして随心院門跡増護の付弟として入寺し「増縁」という僧になっていた)を還俗させて彼を当主とした松殿家を再興させる建議があったという[11]。しかしこの段階では実現せず、明治5年(1872年)に増縁は還俗して九条忠善となるも、まもなく旧・岡山藩家老家だった伊木家の養子に入って伊木家を相続した。その後1888年(明治21年)に忠善は伊木家を離籍して九条家に復籍し、1889年(明治22年)に至って松殿家ではなく鎌倉時代に存在した九条家の分家の公家だった鶴殿家(月輪家)の方を再興して華族の男爵家に列せられることとなった[11]。 系譜
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |
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