板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の2代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。
武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり初戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。戊辰戦争で武勇を馳せた板垣退助は信方の嫡男・信憲の末裔[1]。
来歴
信方は武田氏の宿将として信虎の代から活躍し、武田家の嫡男・晴信の傅役となる。天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をした[5]。
本拠は於曽郷(山梨県甲州市塩山下於曽)と見られ、天文16年(1547年)に、郷内の所領を向岳庵に寄進した記録が残っている[6]。
天文10年(1541年)には信虎嫡男晴信(信玄)による信虎の駿河国追放が起きている[7]。『甲斐国志』によれば、晴信が家督を継ぐと、信方と甘利虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられたという[8]。
同11年(1542年)7月、晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。同年9月、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り、安国寺の戦いで頼継を打ち破った。[9]。
『高白斎記』に拠れば、高遠頼継を追い藤沢頼親を屈服させた晴信は天文12年(1543年)4月に信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じ、翌5月には上原城を整備して入部している。なお、信方はこれに先んじて諏訪・佐久両郡において判物による所領宛行を行っているが(「千野家文書」)、この際の所領宛行は後に再安堵されている点から仮約束的なものであったと考えられている。諏訪支配を担当した信方の立場については『神使御頭之日記』や『甲陽軍鑑』においては「郡代」の呼称が用いられ「諏訪郡代」とされているが、永禄8年(1565年)「諏方神者祭祀再興次第」においては「諏方郡司」の呼称が用いられている点が指摘される[10]。
天文14年(1545年)、晴信は高遠城を攻略し、高遠頼継は没落した。続いて晴信は再び背いた藤沢頼親の福与城を攻めるが頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した頼親は降伏した[11]。
天文16年(1547年)閏7月、晴信は信方率いる諏訪衆とともに大軍で佐久郡に侵攻し、志賀城の笠原清繁を包囲した。関東管領上杉憲政は金井秀景に西上野衆を率いさせ救援の軍を差し向けた。晴信は信方と甘利虎泰に別動隊を編成させて迎撃にあたらせる。8月6日、信方は小田井原の戦いで関東管領軍を撃破し、敵将14、5人、兵3000を討ち取る大勝をおさめた。救援の望みを失った志賀城は落城し、晴信は佐久郡の平定を完了する
[12]。
老年になり、板垣信方はしばしば増長ぎみの行いがあり、武田信玄はこれを諫めて、
誰もみよ、満つればやがて欠く月の 十六夜ふ空や、人の世の中
[13] — 武田信玄
という和歌を送ったと言われる。信方の馬印は「三日月」であり、和歌では信方のことを「月」にたとえている。
天文17年(1548年)2月、晴信は村上義清を討つべく小県郡へ出陣。同2月14日の上田原の戦いで武田軍は敗北し、信方は甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門と共に討死した[14]。
(辞世) 飽かなくも、なほ木のもとの夕映えに、月影宿せ花も色そふ
[15] — 板垣信方
信方の死後、家督は嫡男の信憲が継いだが、不行跡のために武田信玄によって武田家から追放され、のちに誅殺された。これにより板垣家の嫡流は一旦断絶したが、翌年、信方の娘婿で、同族於曾氏の左京亮信安が、武田信玄の命を受けて板垣氏を再興した。これが以後、甲斐板垣氏の嫡流となり、武田氏滅亡後は真田昌幸に仕え、のち加賀藩士となった。武田家から追放された信憲の子孫からは、戊辰戦争で活躍した板垣退助が出ている[1]。
系譜
家族
板垣信方に所縁の地
- 上原城 - かつて城主の館があったとされる郭には、この城に在城した板垣にちなみ板垣平と呼ばれている。
- 板垣信方屋敷 - 山梨県甲府市屋形3丁目5番地附近
- 上田原古戦場 - 長野県上田市上田原
- 板垣神社 - 長野県上田市下之条
脚注
- ^ a b c 恵林寺蔵、松本楓湖筆の板垣駿河守信方肖像画に「維歳明治壬申夏四月、爲機山公三百年祭奠、遺臣二十八家之裔孫、各模其祖肖像以恭供奠前焉。遠孫板垣正形謹誌(明治五年四月、武田信玄公の三百回忌の法要があり、武田旧臣の末裔二十八家の現当主が、先祖の肖像の前に恭しく参列した。板垣信方の遠孫・板垣退助が謹んで書す)」とあり。
- ^ 明応元年(1492年)説あり。
- ^ 江戸時代初期に建立
- ^ 昭和8年(1933年)4月、建立。所在地:群馬県伊勢崎市東本町354
- ^ 『板垣精神』
- ^ 『向嶽寺文書』
- ^ 『甲陽軍鑑』では信虎・晴信の間には軋轢が存在し、晴信は信方と甘利虎泰の両人を頼りにして事を起こしたとしている。
- ^ 「両職」は天文20年に板垣信憲・甘利昌忠の在職が確認されるが(坂名井家文書)、『国志』では遡逆して両名の父である信方・虎泰が務めたとしている。
- ^ 『甲陽軍鑑』や『名将言行録』にはこの頃のこととして信方の忠節ぶりを示す有名なエピソードがある。気が緩んだ若い晴信は詩会や遊興に耽るようになった。信方は病と称して暇を受けて30日間留守にした。再び出仕した信方は晴信の詩会に出席して見事な詩を五度も書いてみせた。晴信がどこで学んだのかと問うと、信方は主君の嗜むことを家臣がしないのはどうかと思い留守の間に僧に学んだと答えた。晴信が機嫌を良くすると、信方はすかさず「父君は非道が過ぎたために追放されたのに、それから3年も経たずにこの有様では信虎様以上の悪大将であられる。腹立たしければご成敗ください。それがしは何時でも馬前で討ち死にする所存です」と諫言をした。晴信は感涙して、それ以後はよき大将になったという。
- ^ 笹本正治『諏訪市史』など。なお、戦国大名の領域支配においては国郡制の「郡」とは異なる独自の領国内地域区分である「郡」単位の支配が行われているが、武田領国における郡代は「郡司」に相当し、信方の事例のように新規支配地において城将が兼任し、郡司職を兼ねた城将が「城代」に相当している可能性が考えられている。
- ^ 『甲陽軍鑑』によると戦勝した信方は小笠原勢へ追い討ちをかけるが不意打ちを受けて敗北してしまい、他の家臣は信方の責任を問うが、晴信は後続に損害を出さずに踏み止まった信方を褒めたという。
- ^
『甲陽軍鑑』などによると信方は、この頃から増長気味の行いが目に付くようになったという。戦勝の折に晴信の許可なく勝鬨式や首実検等を行うようになり、晴信からやんわりと「誰もみよ、満つればやがて欠く月の、十六夜ふ空や、人の世の中」と和歌でその行いを窘められる等、大人気ない行いが目立つようになった。また軍才もやや衰え気味で、天文16年(1547年)の村上氏との戦いではあわや全滅の憂き目に会い、原虎胤に救援されたりしている。
- ^ 「皆も知っているように、美しい十五夜(満月)もいずれは欠ける。満月を過ぎた十六夜の月は、欠けて行く事を知って居るのだろうか。人の世もまた同じである」という意味。
- ^ 上田原の戦いで信方は先陣を務め、緒戦では村上軍を撃破するが、気を緩めてしまい勝鬨をあげ備から離れて首実検をはじめた。村上勢は体勢を立て直して急襲し、信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれ討ち取られた(『甲陽軍鑑』による)。また異説として、退却を始めた村上軍に対し、信方の隊が深追いしすぎたため孤立、反撃に転じた村上軍の将、上条織部によって討たれたとも言う(三田村孝「板垣信方(形)の家族とその子孫」による)。
- ^ または「はかなくも、なお、このもとの夕映えに、月影宿す、花の色ぞ」とも。意味は「いずれはかなく散っていく定めを知りながら、夕方の薄暗がりの中で月の光を受けて、精一杯咲いている花の色は見事である」や、「夕映えと重なるように飽きる事無く月の光が差し込めば、花も一際美しく咲き誇る事であろう」など解釈は数種ある。「木のもと」は「武田家の連枝(親族衆)」、「月影」は「信方」、「花」は「武田信玄(武田家)」を表しているとも言われる。
- ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永祿元年(1558年)、武田信玄の命に依って、板垣家を再興
- ^ 永原一照次男
- ^ 板垣退助五男、絶家再興
- ^ 乾正春の養子となる
- ^ 『一蓮寺過去帳』による。
- ^ 明治期の政治家、板垣退助は、戊辰戦役の際に、甲府城掌握を目前とした1868年(慶応4年)2月に美濃大垣で「自分の十代前の先祖が、板垣信方の孫、正信である」として、本姓の「乾」から「板垣」へと戻した。乾家の先祖は、信方の嫡子・信憲で、信憲の子・加兵衛正信が、1590年(天正18年)、遠州掛川で山内一豊に召し出された際、家老・乾和三(山内備後)の姓を賜って以後代々「乾」姓を称し、土佐藩山内家に仕えた。
- ^ 『寛政重修諸家譜』によると酒依氏を継ぎ、後年徳川氏に仕え代々旗本として存続した
- ^ 上州板垣氏家伝、及び常清寺(伊勢崎市)の「板垣駿河守信形墓」碑によると、三男(二男との説もある)信廣は信方の死後上野国に移り、嫡流は名主として、分流は伊勢崎藩士として栄えた。
参考文献
関連作品
- 映画
- テレビドラマ
- 舞台
- 『風林火山』(2008年、演:千葉真一)
- 『歳が暮れ・るYO 明治座大合戦祭』(2018年、演:中村龍介)
関連項目
外部リンク
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宗家 |
- ∴板垣兼信?-1190
- 板垣頼重1190-?
- 板垣頼兼
- 板垣行頼
- 板垣長頼
- 板垣三郎左衛門
- 板垣三郎左衛門
- 板垣兼光
- 板垣播磨守
- 板垣松溪
- 板垣願阿彌
- 板垣善満坊?-1490
- 板垣備州1490-1515
- 板垣信泰1515-1530
- 板垣信方1530-1548
- 板垣信憲1548-1557
- 板垣信安1558-1579
- 板垣修理亮1579-1600
- 板垣半右衛門1605-?
- 板垣平右衛門
- 板垣知貞1651-1704
- 板垣信精1704
- 板垣久五左衛門1704-?
- 板垣知素
- 板垣信房
- 板垣致知
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信憲流 | |
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守正流 | |
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正直流 |
- (正祐弟)板垣正直1644-1688
- 乾正房1689-1721
- 乾吉勝1722-1747
- 乾正英1747-1786
- 乾正壽1786-1829
- 乾正春1829-1830
- 乾正厚1831-1869
- 乾正士1869-1941
- 乾一郎1941-2000
- 高岡真理子2000-
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友正流 |
- (正祐弟)乾友正1648-1689
- (208年間断絶した家を絶家再興)
- 乾六一1898-1903
- (乾姓を絶家して板垣に復姓)無嗣断絶
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土佐流 |
- 板垣喜右衛門1602-1631
- 板垣喜右衛門1631-1674
- 板垣喜右衛門1674-1738
- 板垣只平1738-1741
- 板垣宇助1741-1773
- 板垣喜助1773-1815
- 板垣惇平1815-1857
- 板垣堅助1857-1859
- (弟)板垣高幸1859-1885
- 板垣四十六郎1885-1945
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伴内流 |
- 板垣伴内
- 板垣伴内
- 板垣甚内
- 板垣政次
- 佐々木政清
- (弟)佐々木権右衛門
- 佐々木権右衛門
- (養子)佐々木権右衛門
- (養子)佐々木登政
- 板垣政純
- 板垣政徳
- 板垣政一
- 板垣賛造
- 板垣進吾
- 女子
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征四郎流 | |
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