林幹
林 幹(はやし かん[1]、1894年(明治27年)[1]4月3日 - 1965年4月23日[2][3])は、日本の俳優、宗教家である[2][3][4][5]。宗教法人天崇教初代教主[2][3][4][5]。本名海上 晴帆(うながみ せいはん)[2][3][4][5]。 人物・来歴1894年(明治27年)4月3日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる[2][3][4][5]。 京華商業学校(現在の京華中学高等学校)を経て、旧制早稲田実業学校(現在の早稲田大学系属早稲田実業学校高等部)を中退し、独学で坪内逍遥について文学を学ぶ[4][5][1]。その後、実際に早稲田大学の坪内逍遥の助手として働いていたが、坪内士行、島村抱月、澤田正二郎ら演劇人と親交を結び、やがて新劇の世界に入る[2][4][5]。1914年(大正3年)、土肥春曙、東儀鉄笛らによって組織された新劇団無名会に加わり、「林 幹」を名乗って初舞台を踏む[6]。1917年(大正6年)5月没落後は、芸術座に加入して宮島啓夫らと共演した後、加藤精一、横川唯治、森英治郎ら率いる舞台協会に加入する[6][7][8]。1919年(大正8年)8月、独立して飯塚友一郎、村田実、音羽かね子らと創作劇場を組織し、倉田百三が演出した有楽座公演『出家とその弟子』に親鸞上人役で出演したが、翌1920年(大正9年)6月に解散[2][4][5][7][9][10]。再び舞台協会に戻ったが、その傍らで坪内逍遥、東儀鉄笛らによって提携された新文芸協会にも加わり、南座などに出演している[7]。同年10月、日活向島撮影所第三部の革新運動に新井淳、中山歌子、酒井米子らと共に参加、特に同年12月31日に公開された田中栄三監督映画『朝日さす前』では主演を務めた[7][11][1]。 1922年(大正11年)8月、第三部消滅後は再び舞台に戻り、同時期に松竹キネマ研究所を退所した村田実と新興劇団丹青座(のち国民劇と改称)を組織、牛込会館、国民講堂などに出演したが、不評のうち関東大震災直後の1924年(大正13年)6月に解散[7][10][12]。その後、再び舞台協会、同志座を経て、同年11月に森英治郎、初代村田正雄、川村花菱らと人間座を組織、牛込会館などに出演[8][12][13]。1925年(大正14年)、同志座に戻り、兵庫県西宮市にあった東亜キネマ甲陽撮影所に森英治郎、宮島啓夫、夏川静江、出雲美樹子らと共に入社、同年9月29日に公開された賀古残夢監督映画『潮』など、数本の作品に脇役出演した[7][8][11]。1926年(大正15年)9月、自ら創生劇(創生劇ペーゼント)を組織し、日比谷野外音楽堂、三越劇場などに出演するが、間も無く解散[7][10][14]。1928年(昭和3年)6月には、加藤精一、佐々木積と共に帝国劇場専属俳優となる[13][15][16][17][1]。以後、明治座、日本劇場など地方各座に出演したほか、戦後にかけて築地小劇場、俳優座の舞台にも特別出演した[13][15][16]。 この間、フリーランサーとして主に東京発声映画製作所の作品にも脇役出演しており、第二次世界大戦終結後は1950年(昭和25年)に設立された日本総合芸術社と契約を結び、1952年(昭和27年)10月9日に公開された黒澤明監督映画『生きる』をはじめ、東宝、新東宝、日活、松竹の各作品に出演[11][18]。後年は1959年(昭和34年)1月15日に公開された映画『暗黒街の顔役』など、初期の岡本喜八監督作品の常連として活躍[1]、体格がよく貫禄のある役を得意とした。 また、本名の「海上 晴帆」名義で戦前から宗教家としても活動しており、はじめ仏教に関心を持ち、宗教家田中智學らに教えを受ける[3][4][5]。1936年(昭和11年)、天夷鳥命からのお告げを受け、神道の再興を志し、日本大学皇道学院、皇典講究所で神道を研究する傍ら、神理教の清水英範について教えを受ける[3][4][5][19][20]。1941年(昭和16年)4月、神理教宣教師となり、東京府東京市四谷区四谷伝馬町(現在の東京都新宿区四谷あたり)に宗教結社光徳教会を設立したが、1945年(昭和20年)に戦災で本部が焼失[3][4][5][19][20]。翌1946年(昭和21年)、神理教の内部分裂に伴い扶桑教に転属するも馴染めず、間も無く脱退[4][5][19][20]。1948年(昭和23年)10月、妻であり、明治・大正期に活躍した日本画家山口瑞雨(米庵)の次女にあたる元新劇女優の海上美乃(旧芸名山口真瑳子、1896年 - 没年不詳)と共に宗教法人天崇教を立ち上げ、同教の管長(のち教主)となる[2][3][4][5][19][20][1]。1953年(昭和28年)10月には、文部大臣の認証を受け、東京都新宿区西大久保(現在の同区大久保あたり)に本部を設置[3][4][5][19][20]。その後、1961年(昭和36年)9月に埼玉県大宮市大字内野本郷(現在のさいたま市西区)へ本部を移設し、活動を続けた[2][3]。 1965年(昭和40年)4月23日、埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の自宅で病没した[2][3]。満71歳没。 フィルモグラフィ日活向島撮影所全て製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、全てサイレント映画である。
東亜キネマ甲陽撮影所全て製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、全てサイレント映画である。
フリーランス(戦前)特筆以外、全て製作は「東京発声映画製作所」、配給は「東宝映画」、以降全てトーキーである。
フリーランス(戦後)特筆以外、全て製作・配給は「東宝」である。
日活特筆以外、全て製作・配給は「日活」である。
東宝特筆以外、全て製作・配給は「東宝」である。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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