柴田昌吉
柴田 昌吉(しばた まさよし[1][2]/しばた しょうきち[3]、天保12年12月27日(1842年2月7日) - 明治34年(1901年)10月8日)は、日本の英語学者。長崎生まれ。長崎英語伝習所で学び、幕府、明治政府で通訳を務めた。本姓は馬田、通称は大介、大助。号は榎江[4]。本野盛亨、子安峻とともに読売新聞創業者の一人[5]。 人物・経歴1842年(天保12年)12月27日、長崎・酒屋町の地役人馬田永成の六男として生まれる[6]。肥前長崎出身。馬田家の本家は、阿蘭陀通詞の家柄で、昌吉の生まれた馬田家の分家は長崎会所の吟味役を務めた[7]。長男の兄は近代活字印刷の始祖として知られる本木昌造、次男の兄は広運館頭取で日本の缶詰製法の祖である松田雅典[5]。兄の本木は馬田家に生まれたが、阿蘭陀通詞を代々務める本木家を相続した。また、本木は本家を通じてオランダ語を学べる環境に育つなか、その才能を見込まれ本木家へ入ったと思われる。松田も馬田家に生まれ、後に金屋町乙名の松田家の養子となった[7]。 1858年(安政5年)、長崎英語伝習所に学ぶ。1862年(文久2年)に、英語伝習所が片淵郷の組屋敷内の乃武館(だいぶかん、旧・長崎原爆病院跡地、旧・済生会長崎病院跡地)の内に移転して、「英語稽古所(英語所)」と改称されると、頭取には、楢林栄左衛門(高明)の高弟・中山右門太が就き、世話役に柴田が就いた[8]。その後、柴田は頭取を務めた[4]。 1863年(文久3年十二月)、洋学所教授方を申し付けられ、半年後には外人教師フルベッキの同僚となる[5]。 1865年(元治2年・慶應元年)には、長崎榎津町に私塾「柴田塾」を開設しており、塾は加州人(加賀国)、肥後人、久留米人、柳川人などが主で、数十人の塾生がいた。塾に学んだ曽我祐準によると、曽我は塾生の中で加州の関澤孝三郎(関沢明清)、肥後の江口英次郎、久留米の柘植善吾などと懇意にしたという[5]。 1867年(慶応3年四月)、幕命により何礼之、柳谷謙太郎(柳屋謙太郎、桑港領事)、松田周次とともに外国方御用として京都・江戸へ向かう[5]。 1869年(明治2年)3月31日には、フルベッキが大学南校(後の東京大学)設立のために上京の途で横浜に到着するが、その翌日に柴田はフルベッキと会っている[5]。 明治初年には、横浜と東京で辞典編集に努め[9]、1873年(明治6年)には、子安峻との共著である「英和字彙」を完成させ、読売新聞の前身である日就社(子安・柴田・本野盛亨創立)から刊行する[5]。これは柴田辞書とよばれた[4]。 その後、長崎に帰郷し、1884年(明治17年)から1892年(明治25年)には、問萬屋町に柴田英語学校(英語義塾)を開いた。一時はその生徒数は百名以上となり、盛大であった[9]。 塾では柴田自身は専ら辞書の校定に従事していたことから、実際の授業の大部分は中川務、長瀬源次郎、堀英次郎、川島寅三郎、米田芳長などが担当したといわれる[9]。この塾で日本の商品学の泰斗となる坂口武之助(後の立教大学教授)が学んでいる[10]。 著書共著
共訳校閲伝記
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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