栗杖亭鬼卵
栗杖亭 鬼卵(りつじょうてい きらん、1744年〈旧暦延享元年〉 - 1823年4月4日〈旧暦文政6年2月23日〉)は、日本の武士、浮世絵師、戯作者。盈果亭 栗杖(えいかてい りつじょう)、栗杖亭 陶山(りつじょうてい とうざん)、大須賀 鬼卵(おおすか きらん)とも名乗った。本名は伊奈 文吾(いな ぶんご)であったが、のちに改名し大須賀 周蔵(おおすか しゅうぞう)となった。晩年は仏卵(ぶつらん)と号した。なお、文献によっては栗枝亭 鬼卵(りっしてい きらん)と表記されていることもあるが、誤字であると推察されている。 概要河内国茨田郡(現在の大阪府北東部)の生まれ[註釈 1][1][2]。もともと武士であったが俳諧と絵画を学び、陣屋の手代を経て浮世絵師となった[1]。その作品は『東海道名所図会』などにも収録されている[1]。その後、東海道の宿場町ごとに纏めた紳士録『東海道人物志』を著し[1][2]、好評を博した[1]。さらに読本の執筆にも取り組み[1][2]、『新編復讐陽炎之巻』『長柄長者黄鳥墳』『勇婦全伝絵本更科草紙』などを次々と上梓した[1]。その作品は歌舞伎として舞台化されるなど、戯作者として名を馳せた[1]。 来歴生い立ち1744年(延享元年)、河内国茨田郡にて生まれた[1]。青年期には、伊奈文吾と名乗り、下級武士として永井氏に仕えた[1]。この頃から既に絵画、狂歌、連歌に才能の片鱗を見せていた[1]。なお、のちに大須賀周蔵に改名している[1]。1779年(安永8年)、妻を連れて三河国渥美郡吉田城下(現在の愛知県豊橋市)に移り、絵画や俳諧の腕を磨いた[1]。なお、ともに吉田城下に移り住んだ妻は、この地で亡くなっている[1]。寛政年間に伊豆国君沢郡三島宿(現在の静岡県三島市)に転居し、三島陣屋の手代として働いた[1]。 浮世絵師として![]() 1797年(寛政9年)に三島陣屋を退職して駿河国有渡郡府中宿(現在の静岡市)に移り[1]、浮世絵師として活動するようになった。「正月六日三島祭」と題した作品は、『東海道名所図会』巻之五に収録されている[1]。なお、府中宿に移ってから養女を迎え、彼女は医師に嫁ぐことになった[1]。それを機に、千日詣に行くと言い残して家を出て、そのまま遠江国佐野郡伊達方村(現在の静岡県掛川市)で暮らすことにした[1]。 その後、1800年(寛政末年)になると、同じく佐野郡の日坂宿(現在の掛川市)に転居した[1]。日坂宿では、画業に励む傍ら煙草屋「きらん屋」を開業したほか、後妻を迎えた[1]。 戯作者として![]() 1803年(享和3年)、前述の紳士録『東海道人物志』を上梓した[1]。この本は、東海道の宿場町ごとに居住している学者や文人などの名が掲載されており、菊舎、播磨屋、須原屋といった三都(江戸、京、大坂)の書林から出版された[1]。 その後、1807年(文化4年)に読本『蟹猿奇談』を上梓し、以降は読本の執筆に励み計22編を出版した[1]。さらには作品が歌舞伎として舞台化され三都で上演されるなど[1]、戯作者として知られるようになった。1807年(文化4年)に発表された『新編復讐陽炎之巻』、1811年(文化8年)に発表された『長柄長者黄鳥墳』、1811年(文化8年)から1821年(文政4年)にかけて発表された『勇婦全伝絵本更科草紙』などが代表作として知られている[1]。 なお、戯作者としての活動の傍ら近隣の子どもらの教育にも尽力し、日坂宿にて寺子屋を開いた[1][2]。寺子屋で指導を受けた者の中から、のちに遠江国報徳社を創設する岡田佐平治らを輩出した[1][註釈 2]。なお、日坂宿での生活については、佐野郡下俣村(現在の掛川市)で庄屋を務める大庭代助らが支援していた[2]。 また、日坂宿にて迎えた後妻を、文政元年に亡くしている[1]。晩年は近隣の長松院にて参禅し、仏卵と号するようになった[1]。1823年4月4日(文政6年2月23日)に死去し、墓所も長松院に置かれている[1][2][3]。 作品![]()
影響人物![]() 一般に「栗杖亭」として知られているが[5]、文献によっては「栗枝亭」と表記されている場合もある[5]。たとえば、鬼卵自身の読本ですら「栗杖亭」と「栗枝亭」という表記がそれぞれ存在し、特に『新編復讐陽炎之巻』に至っては同一の本の中で「栗杖亭」と「栗枝亭」という2種類の表記が混在している[6]。また、読み方についても、『今昔庚申譚』の本文には「栗杖亭鬼卵」という表記の横に「りつじょうていきらん」と振仮名が併記されているのに対して、『初瀬物語』では「栗枝亭鬼卵」という表記の横に「りっしていきらん」と振仮名が併記されているなど[6]、複数の表記が散見される。 国文学者の藤沢毅は、鬼卵が編纂した『東海道人物志』では全て「栗杖亭」表記に統一されている点[7]、鬼卵が狂歌作者として「盈果亭栗杖」という号を用いていた点を指摘し、本来は「栗杖亭」であるべき可能性が高いと論じている[8]。また、「栗枝亭」という表記が出現した理由について、藤沢は「どうも書肆間の単純なミスが原因と考えるのが一番わかりやすい」[9]と指摘している。 家族・親族死別した先妻も、鬼卵と同じく栗柯亭木端の門下として狂歌を学んでおり、夜燕と号した[10]。 登場作品脚注註釈
出典
関連人物関連項目 |
Portal di Ensiklopedia Dunia