梅原半二
梅原 半二(うめはら はんじ、1903年5月24日[1] - 1989年5月23日[3])は、日本の自動車技術者。元豊田中央研究所代表取締役所長を務めた。 経歴愛知県知多郡内海町(現南知多町)生まれ[2]。味噌醤油醸造業米沢屋を営む名家で兄は町長を務めた[2][4]。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)第4学年を修了し、第八高等学校卒業後、東北帝国大学工学部機械工学科に進学するが結核患い休学となる。その後東北帝国大学講師を辞し、妻が経営するバーのマスターを務めていたが、1936年に豊田自動織機製作所に入社し、自動車部嘱託技師となる[4]。1945年東北帝国大学工学博士[5]。1950年からトヨタ自動車工業取締役を務め[2]。初代トヨタ・クラウン、初代トヨタ・コロナの開発指揮を行った。1960年トヨタ自動車工業常務取締役に昇格。品質管理部門等を統括し[2]、デミング賞を受賞した[4]。1960年豊田中央研究所建設委員長。1967年豊田中央研究所代表取締役所長[2][4]。1974年、豊田中央研究所顧問[6]。紫綬褒章受章[4]。1975年4月29日、勲三等瑞宝章受章[7]。1989年5月23日、心不全のため死去[3]。85歳没。 家族・人物哲学者の梅原猛は実子であるが、猛の実母である石川千代(半二が下宿していた魚問屋の娘)との間に大学在籍中に授かった子であり、梅原家が結婚に反対[4]。さらに2人は結核を患い、千代は間もなく死去[4]。猛は赤子の頃に半二の兄・梅原半兵衛に引き取られることとなった[4]。こののち遠藤トモと結婚したが、これが半二のトヨタ入りの遠縁となったとされている[4]。 夫婦ともに日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主でもあった[8][9]。勝負服の柄は紫、緑袖、トモは水色、白袖、桃鋸歯形。
著書
脚注注釈出典
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