森本駿![]() 森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年12月15日[1])- 1944年(昭和19年)10月17日[1][2])は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、兵庫県出石郡出石町長。旧姓は永井、桜井(櫻井)[2]。 経歴但馬国出石郡出石城下[3](兵庫県[2]出石郡出石町[1][4]を経て現豊岡市出石町)で、出石藩侍医・永井玄機(春嶽)の二男として生まれる[1][5]。藩校弘道館で漢学を修めた[3]。その後、東京に遊学し尺振八の塾で英学、経済学、財政学を修めた[2][5]。のち森本家の養子となり、1898年(明治31年)1月に家督を相続した[1][5]。 豊岡洋学校で助教を務めた[3][6]。上京して桜井勉の書生となる[1]。大蔵属に任じられ、科目条例取調委員、各庁営繕規則取調委員などを務めた[2][3][4]。その後、自由党に入党して政務調査に従事し、党報を主宰した[3][6]。1898年(明治31年)第1次大隈内閣が成立すると大蔵大臣秘書官に就任[1][2][3][4][6]。日本勧業銀行監査官も務め[2][4]、退官後は政友会兵庫県支部設立委員、同評議員、同財政調査委員主査を務めた[6]。1900年(明治33年)農商務省からパリ万国博覧会視察の委嘱を受けて、欧米各国を視察して帰国した[1][3][4][6]。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に兵庫県郡部から無所属で出馬して初当選[1][3][7]。その後第10回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した[2][4]。1909年(明治42年)日本製糖汚職事件で検挙され、同年5月13日に衆議院議員を辞職し[8]、同年7月3日に、東京地方裁判所第二刑事部において重禁錮5ヶ月、執行猶予3年の有罪判決が言い渡された[9]。これにより従五位返上を命じられ[10]、勲四等を褫奪された[11]。 実業界では、鮮満木材車輛取締役、播州水力電気鉄道取締役、山東起業監査役、関西土地信託監査役などを務めた[2]。 1927年(昭和2年)故郷の出石町長に就任し1期在任した[1][2]。晩年は東京で過ごした[1]。墓所は青山霊園。 国政選挙歴
著作
脚注
参考文献 |
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