森田信義
森田 信義(もりた しんぎ[1]、1897年12月6日 - 1951年7月15日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家・劇作家、演出家である[1][2][3][4][5]。山本 正夫(やまもと まさお)という筆名もある[4][6][7][8]。 人物・来歴1897年(明治30年)12月6日、兵庫県神戸市に生まれる[1][9][10][11]。 非常に裕福な商家の家庭に長男として生まれ、育てられた[9][10]。父の金蔵の代から、大沢商会の大沢善夫(のちのゼーオー・スタヂオ社主)の祖父とも親交があった[9]。長じて東京に移り、慶應義塾に進学する[9]。1918年(大正7年)ころ岡本綺堂に師事[9]、帝国劇場での上演台本等を書き、同人誌『群像』を主宰する[11][12]。1920年(大正9年)、当時慶應義塾の学生でのちの映画監督・山本嘉次郎やのちの脚本家・小林正の「白夜会」と協力し、栗原トーマスの講演会等を行う[12]。同学卒業後、松竹演劇部の劇団「新声劇」の責任者となり、1925年(大正14年)、3歳年上の同劇団の女優三好栄子(1894年 - 1963年)と結婚する[13][14]。1932年(昭和7年)5月、開校した日本映画演劇学校で、『芝居王国に君臨するのは誰か』という講演を行う[15]。演者は森田のほかに、山本嘉次郎、静間小次郎、野淵昶、小林正らで、森田は静間や野淵、溝口健二、村田実とともに同校の理事を務めた[15][16]。同年6月には、京都座で佐々木邦原作を森田が脚色し野淵昶が演出した『時雨唄鈴鹿越』を、同年12月には金子洋文の作で森田が演出した『金井半兵衛追跡』を、それぞれ「新声劇」が上演した記録が残っている[17][18]。 1935年(昭和10年)6月、松竹興行の白井信太郎が演劇雑誌『新興演劇』を創刊、鳥江鉄也、野淵昶、山上貞一とともに編集を務める[19]。同年12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、その第1作『江戸噺鼠小僧』の製作が同年11月に開始されるが、月形龍之介原作による同作の脚本を「山本 正夫」の名で書いている[6][8]。同社で合計4作の脚本を書いたが、マキノの回想によれば、1936年(昭和11年)4月に森田が「月形を貸してくれ」というのでレンタルしたところ、月形はマキノトーキーに戻ってこなかった、とのことである[8]。1937年(昭和12年)、京都・河原町の「エラン・ヴィタール演劇塾」に招かれ、野淵昶、伊丹万作らとともに講義する[20]。当時、森田は東宝映画に在籍しており、ゼーオー・スタヂオの作品をプロデュースした[2][8]。その後は、第二次世界大戦中も戦後も、一貫して東宝に籍を置いた[2]。 1951年(昭和26年)3月、砧の東宝撮影所長に就任する。同年7月15日、たまたま乗車していたハイヤーが不用意に踏切に進入して小田急電鉄の電車と接触。自動車ごと吹き飛ばされた。東京都世田谷区新町の自宅で死去[1][11]。なお、同年7月16日朝日新聞3面では頭蓋骨骨折で即死としている。告別式は7月21日に撮影所で行われた[21]。満53歳没。 フィルモグラフィ特筆以外すべてクレジットは「製作」(プロデューサー)である[2][3]。公開日の右側には特筆する職能のクレジット[2][3]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 新興キネママキノトーキー製作所すべて製作は「マキノトーキー製作所」、配給は「千鳥興業」である[6]。すべて「山本正夫」名義である[6]。
ゼーオースタヂオすべて製作は「ゼーオー・スタヂオ」、配給は「東宝映画」である[2]。
東宝映画東京撮影所特筆以外すべて製作は「東宝映画東京撮影所」、配給は「東宝映画」である[2]。
東宝
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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