森谷新一
森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月31日[1][2][3] - 1978年(昭和53年)12月19日[1][2][4])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。 経歴岡山県[4]和気郡日生村[1](日生町[2][5]を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる[1][2][3]。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て[1]、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した[1][注釈 1]。 朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した[1][3][5]。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた[1][2][3][4][5]。 日生町会議員に選出され、1940年(昭和15年)3月、日生町長に就任[1][4][5]。町立病院の設置、赤穂線の誘致などに尽力し、1940年5月に全国で初めて主食配給切符制を採用した[1][2]。大政翼賛会岡山県支部常務委員、同組織部長、岡山県翼賛壮年団副団長兼本部長、同事務局長に在任[4][5]。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け岡山県第1区から出馬して当選し[1][2][6][7]、衆議院議員に1期在任[4]。この間、翼賛政治会政調内閣委員、同商工兼務委員などを務め[5]、その後、無所属倶楽部に所属した[4]。1945年(昭和20年)12月1日に衆議院議員を辞職し[1][4][8]、公職追放となった[9]。 戦後、日生信用金庫、玄洋漁業 (株)、中国木造船輸出共同組合の創立に参画したが、納入代金の詐欺横領により事業を整理して埼玉県東松山市に移り、1953年(昭和28年)武蔵野木工 (株) を設立[1][10]。1961年(昭和36年)社名をモリヤに改名した[1]。その他、全国家具商業協同組合会長、全国家具工業会初代会長などを務めた[1][4]。 脚注注釈出典
参考文献
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