椎名慶胤椎名 慶胤(しいな よしたね/のりたね、生年不詳 - 永正17年(1520年)?)は戦国時代の武将。越中の国人で新川郡守護代。通称新七郎。 概要越中国の椎名氏は下総国千葉氏の分家の一つで、鎌倉時代に越中守護名越氏との縁から越中国に移住・土着した家である[1]。椎名慶胤は清水寺再建の奉加帳などに名の残る、新川郡守護代の椎名順胤(四郎次郎)の子と推定される[2]。 恐らくは明応年間の足利義材の越中国下向に伴い、同国守護・畠山尚慶(のちの尚順)より偏諱を受け、慶胤と名乗ったものとみられる[3][4]。同時期に「慶」を通字とした人物として、同じ「越中三守護代家」の神保慶宗・神保慶明・遊佐慶親、また能登畠山家の畠山慶致らがいる[5]。なお、畠山尚順と神保慶宗・椎名慶胤・遊佐慶親の花押は酷似しており、このころ畠山尚山と三守護代家の間で君臣関係の再確認が行われたことが窺える[6]。 その後、守護・畠山尚長より独立の動きを見せた神保慶宗の乱(永正16~17年(1519年~1520年))に加担し、越後守護代長尾為景ら周辺の諸大名と対立した。現存する永正16年8月2日付椎名慶胤安堵状では越中土肥氏に「富山之保(富山郷)」を安堵しており、これによって土肥氏を味方の側に留めたようである[7]。 永正17年4月には神保慶宗と懇意であった遊行上人古跡不外を石田(現黒部市)の報土寺末寺(恐らくは『遊行派末寺帳』の「布施山田金光寺」で、現在の山田気比神社の前身[8])に迎え入れたとの記録がある[9]。 しかし同年8月には境川の合戦で尚長と連合した越後守護代長尾為景に敗れた。さらに12月の新庄城の戦いで神保・椎名軍は壊滅し、慶胤も討死したとみられる[10]。一連の戦闘を経て長尾為景は新川郡守護代の地位を得たが、椎名氏を完全に滅ぼすことはなく、慶胤の兄弟とみられる椎名長常を又守護代として新川郡の統治を委ねた[2]。 後に慶宗の子長職と覇権を競う椎名康胤は慶胤の子とみられる[2]。 越中椎名家推定系図
脚注参考文献
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