榊原忠次
榊原 忠次(さかきばら ただつぐ)または大須賀 忠次(おおすか ただつぐ)は、江戸時代前期の譜代大名、大政参与。はじめ大須賀家を継ぎ、後に榊原家を継いだ。遠江横須賀藩主、上野館林藩主、陸奥白河藩主、播磨姫路藩主。榊原家3代当主。 生涯大須賀忠政の長男で、徳川四天王に挙げられた榊原康政の孫である。母が徳川家康の姪であるため、忠次1代に限り終身松平姓を許された[1]。 ![]() 父の死により3歳で祖母の生家である大須賀家を相続し、遠江横須賀藩で6万石を領した。家康の配慮により、安藤直次が後見人とされている。その後、叔父に当たる榊原家当主榊原康勝に子がなく断絶しかかっていたところ[注釈 2]、徳川四天王の血統が絶えるのを懸念した家康の命により、忠次が10歳で榊原氏館林藩10万石を相続した。一説には、忠次自身の希望で榊原家相続となったともされる。これにより、大名大須賀氏は絶家となった[注釈 3]。 大須賀氏の領地は榊原家に吸収されたりはせず、幕府に返上となった。家臣団も解雇、家は絶家となったが、一部の家臣は3割加増の上で榊原氏の家臣に編入されている[3][注釈 4][注釈 5]。また、忠次の擁立に功があった榊原家の3人の家老は江戸幕府より「御付人」(御附家老に相当する)に任じられてそれぞれ1千石を与えられ、榊原家からの知行とは別に子孫に継承することが許された。幕末に幕府が旗本・御家人の知行から軍役金を徴収しようとした際、彼らの身分を巡って幕府の勘定所と榊原家(当時は越後国高田藩)間で論争になっている[3]。 正保4年12月12日(1648年1月6日)、奥平昌能と共に幼年の徳川家綱の傅役を仰せ付けられた。その後、白河藩14万石に転封、更に姫路藩15万石に国替となり、寛文3年(1663年)には保科正之の推挙により、井伊直孝の死後に席が空く形となっていた幕府の御太老職(大政参与)に迎えられた。 万治2年(1659年)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築し、それまで2つに分かれていた升田-船頭間の川の流れを1つにする流路改変工事を実施している。 姫路では新田開発を指揮するかたわら、和歌、百人一首を嗜んだ。寛文6年(1666年)に刊行された『武家百人一首』は忠次の撰であるとする説があるが、本自体にはその旨の記述は無い。 経歴![]()
官位位階榊原忠次の墓所増位山随願寺にある榊原忠次の墓所。1665年に子の政房によって建てられ、面積はおよそ1100m2あり、彼の事跡を刻んだ碑文は幕府の儒学者である林家の林鵞峰によって作成されている[5]。 系譜父母 正室、継室 子女
脚注注釈
出典
外部リンク
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