橘家圓蔵 (4代目)
4代目 橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1864年 - 1922年2月8日)は、明治・大正期の落語家。本名∶松本 栄吉。北品川に住んでいたため、「品川の圓蔵」、「品川の師匠」と呼ばれた。 来歴父は浅草向柳原で古着商を営んでいた。妻は元吉原の芸者で「富桔梗(ふうききょう)」という芸者屋を営んでいた。 1879年に15歳で父と、1883年に19歳で母と死別した。父の知人が営む人形芝居(西川力蔵の一座)で各地を修行するも大御難で嫌になり帰京した。6代目三遊亭圓生によると、足の役ばかりなので見切りをつけたという。 1887年6月、4代目三遊亭圓生に入門し、(三遊亭?)さん生を名乗る。1887年7月に八丁堀の寄席「朝田亭」で初高座を踏んだ。 1890年9月、二つ目に昇進し、4代目橘家圓蔵に改名。このころ師匠圓生の薫陶を受け鍛えられた。
1897年10月に真打に昇進する。 1905年、初代三遊亭圓左、4代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、3代目柳家小さんらとともに「第一次落語研究会」を始める。
1922年 横浜の寄席「新富亭」に出演中、気管支喘息を発症し休演後に死去。享年59。没後横浜の弘明寺に関係者らで碑が建てられた。 師匠の4代目圓生は、生前「圓生は品川(圓蔵)に継がせる。」と語っていたが、圓蔵は結局圓生を襲名せぬまま死去した[要出典]。 芸風立て板に水の能弁で、作家芥川龍之介は「この噺家は身体全体が舌だ。」と感嘆した。「嘘つき弥次郎」「首提灯」「蔵前駕籠」「お血脈」「反魂香」「釜どろ」「百川」「松山鏡」「廓の穴」「芝居の穴」「三人旅」などが得意ネタ。 地噺などを得意とした。弟子の6代目三遊亭圓生の話では、「山門」で石川五右衛門が欄干に足をかけて久吉を睨みつけるのを「その顔色ってのは、噺家が永代橋でシャッポを飛ばしたようなもんで。」と警句を飛ばし、その上手さとおかしさに客席を沸かせたという。 人物弟子の6代目三遊亭圓生は以下のような証言を残している[要出典]
一門弟子門下(弟子)の育成には力を入れ3代目柳家小さんと並ぶほどだった。
色物廃業
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