正田文右衛門 (3代)三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、1818年8月3日〈文政元年7月2日〉 - 1895年〈明治28年〉3月26日)は、群馬県館林の商人(米穀商、質屋)、醤油醸造家。正田醤油の基礎を作った[1]。幼名藤十郎、家督を継ぐと、先代文右衛門を襲名し、隠居後更に文七と改めた[1]。実業家の正田貞一郎は孫。上皇后美智子は玄孫にあたる。 生涯館林で生まれた[1]。祖父の業を継ぎ米穀商を営み、その傍らで質屋も家業とした[1]。17歳のころより盛んに販路を江戸へ拡張し、常に高瀬舟数十隻を利根川・渡良瀬川の両川に浮かべ、大量取引に役だてた[1]。とくに東国での大麦の評判は高く、「本館麦」として世間にその名が広まった[1]。 また、海路遠く大阪までその影響力が及んで、当時、道頓堀において「上州米文」の名でよく相場の変動が左右された[1]。また、中央商人と地方商人とのために為替業を営み、その取引を円滑にした[1]。1870年2月、孫の貞一郎が横浜で誕生した。 1873年、米穀業を廃して醤油醸造業を始めた[1]。今日の正田醤油の基礎を作った[1]。1895年3月26日、病のため没した[1]。石町、常光寺に葬られた[1]。遺言により山積する流質物を質入主に無償で返した[1]。石町常光寺の文右衛門の墓石に蘭舟高橋濟撰文の墓誌銘があり、全文約二百三十字より成る[1]。 人物人柄平素から仕事に励み、倹約であり、京阪へ行くにも絹布をまとわなかった[1]。父母にも孝行を尽くし、母が目の病を患ったときは、端午の節句で来客が多いときであったが、上州藤岡に名医がいると聞けば、徹夜して母を連れて行って治療させ、失明の難を逃れたこともあった[1]。 業務の余暇に、将棋をたしなんだ[1]。28歳のときに二段になるほどの腕前だった[1]。しかし業務の妨害になると思い、これをやめてしまった[1]。 交流文右衛門は1873年、醤油醸造業を始めた。文右衛門は千葉県野田の二代茂木房五郎と昵懇であったので、創業に当たりその指導を受けた。醤油醸造技術の図面の巻物が正田醤油に秘蔵してあるが、巻頭に房五郎の長男初代茂木啓三郎の序文が記されている。それによると、
家族・親族
脚注参考文献
関連項目
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