死んでもいい (1992年の映画)
『死んでもいい』は、1992年公開の石井隆監督による日本映画。西村望による1980年の小説『火の蛾』を原作とした映画化作品。英語タイトルは”Original Sin"=「原罪」。R-15指定作品。 あらすじ電車で大月駅に着いた平野信は改札を出た直後人妻・土屋名美と軽くぶつかったことがきっかけで彼女の職場である不動産屋に訪れる。名美の夫で不動産屋社長・土屋英樹に就職を直訴した信は何とか採用され、アパートで暮らしながら働き始める。数日後、土砂降りの中名美がモデルルームに行ったはずの信を探しに行くと、彼に「一目見たときからあんたを好きになった」と犯されてしまう。名美に怒りの感情がこみ上げる中突然少年のように泣き出した信を見て、彼女は自らの意志で彼を受け入れてしまう。 事を終えた直後、連絡がつかない信を探しに土屋がモデルルームにやって来ると、名美は2階のベランダに隠れ信は“疲れて一人でベッドで眠っていた”と嘘をつく。後日、土屋の提案で不動産屋の社員旅行で温泉に行くことになり、宴会後酔った彼は名美と寝室に戻って眠りにつく。しかし深夜にふと目が冷めた土屋は名美がいないことに気づき、信たちの部屋に行くと彼もおらず宿屋を探し回る。混浴風呂で名美と信を見つけた土屋は、浮気を疑って激怒し「先に奥さんが入っていたとは知らなかった」と言う彼をその場でクビにしてしまう。 しばらく時が経った頃、信のことを愛してしまっていた名美は転職した彼の居所を探し出し、彼の自宅で話し込む。名美との会話で土屋に生命保険をかけられていることを知った信は、彼女が帰った後強盗殺人に見せかけて彼を殺すことを思いつく。後日再び名美と会った信は、強盗殺人の計画を話し「次の雨の日の夜に電話のベルが1回鳴ってすぐ切れたらそれが決行の合図」と告げる。しかしその直後当の土屋は密会していた2人を見つけると、信を殴って名美を連れて帰宅し妻に二度と彼と会わないよう告げて今回のことを水に流す。 後日雨の日を迎えると名美は土屋から、夫婦関係をやり直すため思い出のホテルに翌日泊まることを告げられて感激する。しかし直後に名美は信の殺人計画を思い出して不安になり、その夜電話のベルが1回鳴った後彼が自宅外に来てしまい彼女は彼に考え直すよう説得して帰らせる。しかし翌日仕事で遅れる土屋より先に一人でホテルの部屋に着いた名美の前に信が現れ、その後やって来た土屋に隠し持っていたスパナで襲いかかる。強盗殺人による犯行に見せかけるため名美は信に殴るよう頼むが、思った以上に強い力で殴られた彼女はその場に倒れ動かなくなってしまう。 出演
スタッフ
製作本作は10年の間に2度の頓挫を経て、3度目の企画でようやく映画化された[1][2][3][4]。 1982年最初は1982年に東映セントラルフィルムとにっかつ撮影所が組んで「何かやろう」ということから始まった企画だった[5]。企画は東映が持っており[6]、東映サイドから「女性に見てもらうポルノ映画」という意向が出され[2][7]、関根恵子主演、池田敏春監督など、キャスティングは東映が決めた[6]。 にっかつの佐々木志郎が『火の蛾』を選び[5]、にっかつ企画営業部の山田耕大が「『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を彷彿とさせる話で、脚本を石井隆に頼むことにした」と話しているが[5]、石井は「先に誰かがシナリオを書き...監督を予定していた池田さんが自分に脚本を発注した」[8]、「『白いドレスの女』のような悪女モノを、と注文を受けた」と話している[3]。石井にとって他人の原作を脚色するのは初めてだった[3]。佐々木は前年の『ラブレター』で関根恵子と仕事をしており、監督の池田は山田の近所に引っ越して来る熱の入れようだったという[9]。 西村望の原作『火の蛾』は、事件記者だった西村が東大阪で実際に起きた殺人事件を取材して書いたもので[10]、タイル職人の親方の許に出入りしていた青年が子持ちの奥さんといい仲になり、深夜奥さんの手筈で忍び込み、酔って寝ていた親方を殺害するという焼け死ぬのが分かっていながらどうしようもなく燃え盛る炎に飛び込んでしまう蛾の習性を男と女の性に喩えたもの[10]。 東映から「若干ファッショナブルなものにして欲しい」との要望が出されたため、原作の東大阪を東京に、タイル職人の妻の設定を不動産会社の社長夫人に変更した[5][10]。石井の脚本は難航したが[5]、子供絡みの愁嘆場は避けて、陰画のラブストーリーとして完成させた[10]。夫役でキャスティングされていた映画監督転身前の伊丹十三が脚本に感心し、石井に強い関心を寄せていたという[5]。関根も脚本を読み、やる気満々で「ヒロインは情念の女ですから、この役は私しかないと思い、お引き受けしました。濡れ場も重要な設置の一つ、新婚ですから関係者以外シャットアウトして撮影にのぞみます」と話していた[7][11]。関根のハードなファックシーンがふんだんにあるのではと期待された[11]。 どちらが先かは不明だが同じ頃、高橋伴明もにっかつの企画営業部に『TATTOO<刺青>あり』を持ち込んでいて、こちらもヒロインは関根恵子で行きたいとの要望で、同作は当初はにっかつでの製作が予定され『TATTOO<刺青>あり』『火の蛾』の順番で撮影に入る予定にしていた[5]。当初は『火の蛾』のクランクインは1982年7月中旬と報道された[11] 『TATTOO<刺青>あり』のシナリオはにっかつで印刷した[5]。佐々木志郎が『ラブレター』で関根と仕事をしていたので、高橋伴明、関根恵子、佐々木、山田耕大とで一席持とうと当時のライターの定宿だった中野の旅館で会食した。すると初めて会った高橋と関根が意気投合し、恋の炎を燃え上がらせた[2][5]。しかし『TATTOO<刺青>あり』がにっかつで正式に製作が決定せず[5]、業を煮やした高橋はATGに企画を持っていった[5]。高橋はそれまでほとんど無名で、関根との結婚報道で名前が売れた[11]。逃げ隠ればかりしていた関根が自分から電撃婚約、新婚旅行の出発、帰国、入籍披露宴の期日をマスコミに通知してくるサービスで、報道陣の前で愛嬌を振りまいた[11]。 夫役に伊丹十三、若者に古尾谷雅人、ジャパン・フィルム・カンパニー製作、東映セントラルフィルム配給、プロデューサー・佐々木志郎、監督は池田敏春で製作が決まり[1][7][12]、夫と年下の青年の愛に溺れていく三角関係を描くという企画で、原作と同じタイトル『火の蛾』で1982年9月公開を決定していた[7][12]。 しかし1982年6月に『TATTOO<刺青>あり』が公開され、関根の演技が高い評価を受けると、高橋との新婚旅行から帰った関根は、裸の撮影を拒否し降板した[2][7]。池田がピンク映画の監督と結婚するぐらいだから何でもやってくれるだろと甘く考え高橋と揉めた[12]、あるいはそこまで脱ぐなら自分の作品で脱げばいいなど[12]、高橋が後ろで糸を引いていると噂された[12]。山田耕大は「関根さんから出演の意向は変わらないしラブシーンもするが、露出は許して欲しいとの申し入れがあり、我々も東映セントラルフィルムもそれでいいと関根に返事したが、池田が『それでは撮れない』と拒否をして『火の蛾』は分解した」と話している[5][9]。東映が関根と池田を交えて再三話し合いを持ったが決裂したとする文献もある[6]。関根の所属事務所IFプロダクションは東映に申し訳ないと関根を解雇した[2][12]。監督の池田はにっかつを退社し、これから羽ばたくという大事な時期だった[8]。この決定は撮入寸前で、製作発表の前日だった[1]。2、3日して池田が「やっぱり『火の蛾』やらせてくれよ。あれからコンテばんばん浮かんできてさあ」などと泣きそうな顔で訴えたというが、スタッフをバラした後でダメだった[9]。池田は悪い足で歩き回りながらコンテを考えるので、真下の住人が「うるさい」と大家に訴え、アパートを追われたという[9]。 一旦延期し、監督・キャストを白紙に戻し年内クランクインを目途に再検討されていたが延期された[3][7][8]。池田と高橋はディレクターズ・カンパニーの結成に参加し、企画はディレクターズ・カンパニーに移った。 1989年二度目は石井隆の友人である相米慎二の肝煎りで[2][10]、相米と西崎義展のプロデュース、石井監督で樋口可南子を主演に[13]、タイトルを『死んでもいい』に変更[10]。一般紙に「石井隆の怨念か?頓挫の末に実現」とまで書かれた[2]。脚本をかなり直し、舞台も青年が子供の頃、母と来た富士急ハイランドの近くの大月市に変えクランクインしたが[8][10]、今度はクランクイン2日目に樋口が「監督と解釈が違い過ぎる」[8]、「演出についていけない」[8][10]と降板した[2][3][8][10][13]。石井がスタッフに土下座した日は松田優作が死んだ翌日[10]。 1992年二年後、唐突に「大竹しのぶ、永瀬正敏で撮らないか」と石井に声が掛かり[10]、10年越しの企画がようやく映画化されることになった[2][4]。大竹は「私に声をかけてくれたことが嬉しかった」[14]、「こういう役はあと5年ぐらいしか年齢的にできないかもしれない」とオファーを受けた[15]。マスコミにハードなラブシーンのみ過度に取り上げられた[1][15]。 脚本石井は自身の脚本を何度も読み直し、ドラマとはいえない日常をきっちり撮って、そこにすごいドラマを潜めたいと構想した。何気ない会話が人を追いつめていく、10年の間に余計なドラマを削り、主演に大竹が決まってさらに削ぎ取った[3]。 撮影製作は当初、ディレクターズ・カンパニーであったが、クランクイン10数日後に「ディレクターズ・カンパニーが倒産した」とアルゴプロジェクトの伊地智啓と岡田裕から現場に「製作はアルゴに変わるが、心配せずに完成させて欲しい」と説明があった[1]。ギャラはまだ届いていない状況ながら[3]、大竹と永瀬の気合の入った演技が皆を奮い立たせた[3]。キャスト、スタッフ一同、いい映画を作ろうという気合が凄く[3]、7日間の完全徹夜を含む撮影実数25日で映画を完成させた[1][15]。 大竹しのぶは「石井さんの演出は、ご本人の繊細な性格にも似て、分かりやすそうで分かりにくい。具体的なようで、そうでもないようで(笑)。不思議な演出でした」などと話している[14]。また強行撮影はタイトルをもじり、キャスト・スタッフとも『死にたくない、死にたくない』と言いながら撮影したという。「そこで頑張れたのは、この映画が絶対にすごいものになるんじゃないかという予感が、現場のみんなにあったからだと思う」と話している[14]。 音楽劇中曲としてちあきなおみの「黄昏のビギン」が効果的に使用されている。 撮影記録受賞歴
脚注
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