沃川陸氏
沃川陸氏(オクチョンニュクし、朝鮮語: 옥천육씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は忠清北道沃川郡である。2015年の調査では、21,410人である。分派に管城陸氏(朝鮮語: 관성육씨)があり、2015年には1,183人がいる[1]。 起源歴史『沃川陸氏大同譜』と『朝鮮氏族統譜』によると、始祖は、927年に中国唐から新羅へ移住・帰化した中国浙江省出身の陸普である。唐明宗が文学典礼之臣を新羅に宣教師として送った際に洪殷説などと8学士の一人として移住した。 しかし、 その後の系譜は失伝し、高麗忠烈王時代の主簿陸仁端を一世祖とした。 本貫沃川は忠清北道の沃川郡を指す。『世宗実録地理志』に忠清道沃川郡の土姓として陸・黄・全・申の4姓が記録されている。1896年忠清北道沃川郡となった。 分派陸仁端の孫、陸巨遠の息子の代で分派した。長男陸麗は徳谷公派、次男陸沆は公州牧使公派、三男陸埤は巡察使公派、四男陸綬は郎将公派の祖となり、末子陸台貴の家系は孫の代で絶えた。
人物徳谷公派の陸麗は高麗末も都巡察使として倭賊を撃退し功を立てた。高麗が滅亡し、朝鮮となると、官職を捨て、忠清南道公州徳里に隠居した。彼の孫陸命山は、大将軍を務め、次世代で石同系と石貞系に分かれた。 牧使公派陸沆の長子陸晋の子孫には副尉陸渚と済州牧師陸閑、東莱県監陸世英、儒学者陸相贄などがあり、次男陸常の子孫でには同知中枢府事陸春秀、万戸陸碩と訓練院判官陸成禹などがある。 巡察使公派は陸埤の息子陸涯が参判を務め、その息子参奉陸軒の代で2派に別れた。 郎将公派は、将士郎陸漢宗と通政大夫陸鵬が代表的であり、粛宗時代の学者陸鴻は文章と徳行で知られ、「石亭遺稿」を残した[2]。
行列字
科挙及第者沃川陸氏は朝鮮時代の文科及第者1人、武科及第者7人、生員・進士11人を輩出した[3]。
集姓村人口
脚注参考文献
関連項目 |
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