河井醉茗河井 醉茗(かわい すいめい、1874年(明治7年)5月7日 - 1965年(昭和40年)1月17日)は、日本の詩人。本名、又平。大阪府堺市生まれ[1]。 「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てる。また雑誌「女性時代」「詩人」を刊行するなどして口語自由詩を提唱した。詩集に『無弦弓』『塔影』など。 経歴1874年5月4日、大阪府堺市北旅籠町に生れた。父は又平、母はせいで、呉服商を営んでいた。幼名は幸三郎。1881年錦西小学校入学。東京専門学校中退[1]。18歳で「少年文庫」などに詩などの投稿を重ねる。20歳のときに詩「亡き弟」が初めて「少年文庫」に掲載され、以後「文庫」(「少年文庫」改題)の記者として、1907年に退くまで詩欄を担当し、北原白秋、島木赤彦らを世に送った[1]。また「よしあし草」の詩歌欄を編集。1899年に創設された東京新詩社に参加する[2]。1901年に詩集『無弦弓』を刊行。1893年に石井たまと結婚し一男六女を授かる。1922年に相州平塚海岸に移住。 このほか「女子文壇」「新少女」の編集に当たり、「文庫」を退いた後は「詩人」を発行し口語自由詩、散文詩を推進。また日本詩人協会や大日本詩人協会の創立にも参加したり、女性時代社をおこして「女性時代」を刊行するなど、昭和期において詩の発展に尽力した。1937年、芸術院会員[1]。島本久恵と再婚し、1920年に長男島本惠也、1927年に次男島本融をもうけた。戦後1949年、詩誌『塔影』を創刊[1]。ほか、日本詩人クラブ、日本文芸家協会名誉会員。 同年、河井を含む日本芸術院会員9人が皇居に招かれ、午餐の御陪食を賜る。食後のお茶の席で「詩」について話す[3]。 1965年1月17日、東京都目黒区中目黒の自宅で、急性心臓衰弱のため没した。墓所は小平霊園。 著書
共著編
脚注関連項目外部リンク
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