河南省 (中華民国)
河南省(かなんしょう)は、かつて中華民国に存在した省。現在の中華人民共和国河南省の地域に相当する。 地理清代の河南省の管轄地域を継承し、現在の中華人民共和国河南省全域、安徽省金寨県の大部分、湖北省大悟県東部を管轄した。 東は山東省及び安徽省、北は山西省及び河北省、南は湖北省、西は陝西省に接していた。 歴史1912年(民国元年)3月、中華民国北京政府が成立すると河南巡撫を河南都督と改称、1913年(民国2年)、『劃一令』により民生部門長官として民政長が設置されたが、河南省でも都督が兼任している。1914年(民国3年)5月23日には民政長を巡按使と改称されている。1916年(民国5年)7月6日、巡按使は省長と改称、その下部に政務、財務等の庁が設置された。1927年(民国16年)3月9日、国民党中央政治会議は河南省政務委員会を設置、当初は武漢国民政府、後に南京国民政府に帰属した。 1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると河南省は日本軍により占領、南京政府は実効支配権を喪失し河南省政府は亡命政権となった、その後は中華民国臨時政府、続いて汪兆銘政権の実効支配下に置かれることとなった。 1945年(民国34年)、日本の敗戦と汪兆銘政権の崩壊により中華民国の統治権が回復、しかし1948年(民国37年)10月24日、共産党勢力により開封県が「解放」されると、中華民国は実効支配権を喪失している。 省会省会は開封県に位置していたが、日中戦争により日本軍に占領されると1938年(民国27年)6月に鎮平県、1939年(民国28年)10月に洛陽県、1942年(民国31年)4月に魯山県、同年5月に内郷県、盧氏県に疎開している。1945年(民国34年)、日本の敗戦後は再び開封県に戻された。 歴代省長
行政区画道制清代は開帰陳許道、彰衛懐道、河陝汝道の3道が設置され、南京臨時政府はこれを踏襲したが、1912年(民国元年)3月、北京政府が成立すると3月に開帰陳許道、彰衛懐道が、1913年(民国2年)には河陝汝道も廃止され、新たに豫東道、豫西道、豫南道、豫北道が設置され観察使が任命された。1914年(民国3年)5月、開封道、河北道、河洛道、汝陽道と改編されている。1927年(民国16年)、北伐の結果馬玉祥が河南省に入ると道制は廃止された。 県級行政区画中華人民共和国成立直前の管轄県は下記の110県。(50音順)
行政督察区1932年(民国21年)4月、全省を14区に分割した行政督察区制度が施行された。1938年(民国27年)8月には全省を12区、11月に13区、1942年(民国31年)3月に再び12区に改編され、中国共産党による「解放」まで沿襲された。 脚注関連項目
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