泉井上神社
![]() 鳥居 泉井上神社(いずみいのうえじんじゃ)は、大阪府和泉市府中町にある神社。式内社で、旧社格は府社。境内には和泉国総社の和泉五社総社も鎮座する。 祭神
歴史詳しい創建年は不詳であるが、社伝によれば、神功皇后が仲哀天皇2年4月に当地を行啓した際に突如として泉が湧き出たため瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉とし、宮を築いて祀ったとも、仲哀天皇9年に神功皇后が三韓征伐へ出発する途上、当地を行啓した際に突如として泉が湧き出たため、凱旋後に霊泉として社を築いて祀ったともいう。 本殿脇にあるこの霊泉は「和泉清水」と呼ばれ、和泉国の国名の起源とされる[1]。 霊亀2年(716年)4月に河内国から分立して和泉国の前身となる和泉監が成立すると、後に当社を中心として和泉国の国府がこの地に置かれた。その際、国内にあった和泉国一宮・大鳥大社、二宮・泉穴師神社、三宮・聖神社)、四宮・積川神社、五宮・日根神社の祭神を勧請して和泉五社総社が当社の境内に建立されている[1]。また、左大臣橘諸兄の子諸貞が当社に入ると、以後代々に渡って祭主職を継いでいる。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳に、「和泉郡 泉井上神社」と官幣小社として記載されている。 中世に入ると、当社と五社総社の区別が次第に希薄になり、同一視されるようになった。またこの時代から次第に八幡信仰が盛んになり放生会も行われるようになったという。そのため当社は井ノ八幡宮、井八幡社、井戸ノ森八幡宮とも呼ばれ、代々武士の崇敬が厚く、特に楠木正成、新田義貞、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉らは厚く崇敬したとされる。 その豊臣秀吉は大坂城在城の折には和泉清水から水を汲ませて茶の湯に用いていたといわれる。しかし、その一方で二千石あったという所領は天正13年(1585年)に秀吉により大幅に減ぜられている。 慶長10年(1605年)には豊臣秀頼が片桐且元を奉行として五社総社本殿(重要文化財)を再建[2]しているが、この際に当社と五社総社との立場が変更され、当社は五社総社の摂社とされてしまった。 1870年(明治3年)に摂社・泉井上神社の社殿が焼失し、1873年(明治6年)には境内地の大半が上地されて境内が狭くなった。 1895年(明治28年)に摂社・泉井上神社の社殿が現在地に再建されている。1908年(明治41年)にようやく当社は本社に戻され、五社総社は摂社とされた。また、付近にあった式内社の和泉神社も当社の境内に移された。 境内
摂・末社
祭事
文化財重要文化財大阪府指定有形文化財大阪府指定史跡交通アクセス周辺脚注
参考文献
外部リンク
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