深尾須磨子
深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月31日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)[2][注釈 1]。 来歴![]() ![]() 兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ[2]。京都師範学校中退[5]、1907年京都菊花高等女学校卒[2][5]。与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之焏[6]と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇[7]と散文「最終の旅」[8]が処女作となる[注釈 2]。 大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り[5]、シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている[注釈 3]。まる3年の在外生活を経て帰国しコレットの邦訳を初めて行う[11]。1930年詩集『牝鶏の視野』を上梓、その12月、毎日新聞特派員として再度、シベリア経由でフランスに渡るとおよそ1年半の滞在[5]の間に生物学を学び、昭和7年(1932年)春に帰国した。深尾のフランス渡航は6回を数える。 戦前はベニート・ムッソリーニに心酔し、『改造』昭和16年(1941年)7月号に「ムッソリーニの夜」という一文をよせ、「その足跡はあまりにも超人的であり、神に近いとはいえ、無限に豊かな人間味に至っては実に汲めども尽きぬ泪である」と讃美した。暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』は「ムッソリーニの礼讃詩人」という副題でそのことを指摘している[12]。戦後は平和運動に活躍した[13]。 小説、児童文学など多彩な活動をしたが、戦争協力を非難され[12]、左翼的文学者となった[14]。1974年、胃癌のため死去[15]。戒名は水妖院吟遊佳苑大姉[16]。深尾の作詞した曲は、NHK全国学校音楽コンクール「小学校の部」の課題曲に3年連続して選ばれている[17]。 著書単行本
雑誌記事
翻訳単行本
児童書
訳詞
詩作歌詞
校歌【小学校】
【中学校】 【高等学校】
全国学校音楽コンクールの課題曲2012年–2014年にわたり、NHK全国学校音楽コンクール「小学校の部」の課題曲に深尾の作詞した3曲が選ばれた[17]。
日記・旅行記
参考文献伝記・人物評
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク |
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