渋谷向山古墳
![]() 景行天皇山邊道上陵 拝所 渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)は、奈良県天理市渋谷町にある古墳。形状は前方後円墳。オオヤマト古墳群(うち柳本古墳群)を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山邊道上陵)」として第12代景行天皇の陵に治定されている。 全国では第8位の規模の古墳で[4]、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定されていたが、近年では年代がやや繰り上げられ4世紀中頃とする研究者も多い。 概要奈良盆地東縁、龍王山から西に伸びる尾根筋の傾斜変換点に築造された巨大前方後円墳である。後円部の先端を山辺の道が通り、行燈山古墳にかけて上り坂の石畳の古道が多く残されている。現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるが、1971年(昭和46年)以降に宮内庁書陵部による数次の調査が実施されているほか[5][6]、2016年(平成28年)に学会立ち入り調査が実施されている[7]。 墳形は前方後円形で、前方部を西方(傾斜低方)に向ける[6]。墳丘は後円部で4段築成、前方部で3段築成[6]。墳丘長は300メートルを測り、全国では第8位、奈良県では五条野丸山古墳(橿原市、310メートル)に次ぐ第2位、柳本古墳群では最大の規模になる[4]。墳丘周囲には周濠が巡らされているほか[6]、陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められる(5世紀代の陪塚とは性格は異なる)[8]。出土品としては、円筒埴輪・形象埴輪のほか、江戸時代に出土したと伝わる石枕(国の重要文化財)等がある[6]。 築造時期は、古墳時代前期後半の4世紀後半頃[9](または4世紀中頃[8])と推定される。柳本古墳群では行燈山古墳に続く時期の築造で、古墳時代前期の古墳としては全国で最大規模になり[6]、また行燈山古墳とともに初期ヤマト王権の大王墓と目される[8]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第12代景行天皇の陵に治定されている[10]。 遺跡歴
墳丘![]() 渋谷向山古墳の航空写真 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。![]() 3DCGで描画した渋谷向山古墳 墳丘の規模は次の通り[5]。 墳丘の段築は後円部・前方部で連続するほか[6]、後円部南側裾では造出状の施設が認められる[12]。前方部には幕末の修陵以前に阿弥陀堂・観音堂があったため、墳丘には大きな改変が認められる[12]。 墳丘周囲には周濠が巡らされており、後円部側6ヶ所・前方部側4ヶ所で渡堤によって区切られる(傾斜地での湛水のため)[6]。そのうち前方部側では近世に農業用溜池として拡張を受けたとされるが、後円部側は築造当初の形状とされる[8]。
出土品伝渋谷向山古墳出土 石枕 関西大学博物館展示。(国の重要文化財) 渋谷向山古墳からの出土品としては、宮内庁書陵部の調査の際に出土した円筒埴輪(普通円筒埴輪・鰭付円筒埴輪・朝顔形埴輪)・形象埴輪(蓋形埴輪・盾形埴輪)がある[6]。 また本古墳からの出土品と伝承されるものとして、石枕が知られる。元治元年(1864年)に出土したものというが、経緯等の詳細は明らかでない。碧玉製で、重さ24キログラムを測り、外縁・側面には線刻が施されている。1961年(昭和36年)に国の重要文化財に指定され、現在は関西大学博物館(大阪府吹田市)に所蔵されている[6][14][15]。 そのほか、渋谷村出土という三角縁波文帯神獣鏡も知られるが、こちらも経緯等の詳細は明らかでない。現在は京都国立博物館に所蔵されている[6]。 被葬者
渋谷向山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第12代景行天皇の陵に治定している[10][16][17][18]。景行天皇の陵について、『古事記』[原 1]では「山辺之道上」の所在とあり、『日本書紀』[原 2]では「山辺道上陵」とある(崇神天皇陵と同名)[10][19]。『延喜式』諸陵寮[原 3]では遠陵の「山辺道上陵」(崇神天皇陵と同名)として記載され、大和国城上郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で、陵戸1烟を毎年あてるとする[10]。また正治2年(1200年)の『諸陵雑事注文』には「大和渋谷」と見える[10]。 その後、陵の所在に関する所伝は喪失。元禄10年(1697年)の江戸幕府による元禄の探陵では崇神天皇・景行天皇いずれかの陵と比定され、安政2年(1855年)には江戸幕府により崇神天皇陵に考定されたのち、元治元年(1864年)に修陵が実施されたが、慶応元年(1865年)の修陵の竣工直前に景行天皇陵に改定され、その後現在まで踏襲されている[10]。 なお、考古学的にはヤマト王権の大王墓の1つとされ、初代大王墓とされる箸墓古墳(桜井市箸中)からは数代後に位置づけられる[8]。
陪塚宮内庁治定の山辺道上陵の陪塚(陪冢)は、飛地陪冢3ヶ所(い号・ろ号・は号)[18]。詳細はそれぞれ次の通り。
関連施設
脚注原典 出典
参考文献(記事執筆に使用した文献)
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