源懿子 (典侍)源 懿子(みなもと の いし/よしこ、? - 承暦2年12月29日(1079年2月3日))は、平安時代中期の女官。従三位典侍。源高雅の娘。母は藤原親明の娘・基子。初め、藤原頼明と結ばれて藤原惟任・憲輔を生んだが、後に藤原長家と再婚して藤原道家・忠家・祐家・藤原信長後室を生んだ。 経歴生年については不明であるが、後に夫となる藤原長家が寛弘2年(1005年)で、母の藤原基子が寛弘5年(1008年)生まれの後一条天皇の乳母を務めていることから、寛弘5年頃に懿子が誕生し、その関係で母が乳母に選ばれたとする角田文衞の説がある[1]。 父の源高雅は有明親王の子であるが、寛弘6年(1009年)8月に従四位下東宮亮で出家[2][1]し、長和元年(1012年) 以前[3]に亡くなっている[4]。これに対して母方の祖母(藤原親明の妻)は藤原道長の嫡妻・源倫子の乳母[1]、母方の伯母[注釈 1]は藤原道長の娘・彰子(上東門院)の乳母を務め、母・基子も彰子が生んだ後一条天皇の乳母となった関係で、懿子も彰子の元に出仕して「中将の君」と呼ばれ[6]、万寿元年(1024年)9月に正五位下に叙され[7]、後に従三位典侍に進んで「院典侍」と呼ばれた[8]。 初め、藤原頼明と結ばれて惟任・憲輔らを生んだが、頼明は万寿4年(1027年)に死去し、長元の初年頃に長家と結ばれたとされている[9]が、頼明の存命中に離縁して長家と結ばれたとする説もある(後述)。長家との間に3男1女を儲けたが、長暦2年(1038年)4月に長家との長男・道家が早世したことを機に出家した[9]。 康平7年(1064年)11月には長家にも先立たれ、承暦2年12月29日(1079年2月3日)に死去している[9]。 備考万寿4年(1027年)に夫であった藤原頼明に先立たれ、翌長元元年(1028年)頃に藤原長家と再婚したとしても時系列的には不自然ではないが、以下の問題から頼明の存命中に離別して万寿4年の時点で長家と関係を持っていた可能性がある。
以上の点から、長家が万寿4年以前(恐らくは万寿2年に斉信の娘が亡くなった後)に懿子と関係を持ち、同年に信家が誕生したとする推測が可能である[4]。 もっとも、それまでは妻の実家に婿にとして入る形になって生活していた長家が、父の勧める縁談を断って既に父親のいない女性を妻を迎えたことで自分と懿子が住む新しい邸宅を用意する必要に迫られた。そこで長家は大叔父兼明親王[注釈 3]ゆかりの三条第を入手して懿子やその子供達と住んだ。兼明親王の通称「御子左」からこの邸宅は御子左第とも呼ばれ、長家と懿子の子孫は御子左流と称されるようになる[4]。 脚注注釈出典
参考文献
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