源能有
源 能有(みなもと の よしあり、承和12年〈845年〉 - 寛平9年〈897年〉)は、平安時代前期の公卿。文徳天皇の皇子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。号は近院大臣。 経歴文徳天皇の皇子で、仁寿3年(853年)に時有・本有・載有ら兄弟とともに源姓を与えられ臣籍降下した。能有の多くの兄弟がこれと同様の道をたどり、その子孫は後世文徳源氏と呼ばれる。 貞観4年(862年)に従四位上に直叙されると、貞観8年(866年)加賀守、貞観11年(869年)大蔵卿を経て貞観14年(872年)には28歳にして早くも参議に任ぜられて公卿に列すなど、徐々に中央官界において頭角を顕し、弟の清和天皇それに続く陽成天皇の治世をよく輔けた。その能力は藤原基経からも評価され、その娘を娶っている。この間、元慶元年(877年)従三位、元慶6年(882年)中納言と順調に昇進するとともに、左兵衛督・左近衛中将・左衛門督・検非違使別当と武官も兼帯した。 宇多朝に入っても、引き続き寛平2年(890年)正三位、寛平3年(891年)大納言と順調に昇進する。宇多天皇の能有に対する信任は厚く、符宣上卿(太政官符を発給する際の上卿)として28回も名を連ね、『日本三代実録』編纂開始時には左大臣源融・右大臣藤原良世と先任の上卿2人がいるにもかかわらず撰国史所総裁を務めていること、寛平7年(895年)には位階昇進の人事草案を提出する擬階奏を行っている。いずれも、本来は摂関もしくは 人物朝廷の儀礼や政務に通じた有能な人物として知られていた[要出典]。 菅原道真と親しく、道真の詩文集『菅家文章』には能有に頼まれて自宅の竹を能有邸に移植した時の漢詩や能有追悼の漢詩が収録されている。また、宇多天皇も『寛平御遺誡』の中で右大臣(能有)を失った衝撃について触れている [注釈 2]。 勅撰歌人として、『古今和歌集』(3首)以下、勅撰和歌集に和歌作品4首が採られている[1]。 官歴注記のないものは『六国史』による。
系譜『尊卑分脈』による。 能有の男系の子孫には、後代保元の乱で活躍した源季実などが出ている。一方、女系に目を転じると、娘の昭子は藤原忠平の妻として師輔らを産み、同じく柄子は貞純親王の妻となって源経基を産んでいる。即ち、師輔以降の藤原摂関家と、経基以降の清和源氏という二つの大族に、その血統を伝えたことになる。 脚注注釈出典参考文献
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia