片岡栄二郎
片岡 栄二郎(かたおか えいじろう、1918年11月23日 - 1983年6月19日)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。本名嶋田 助一郎(しまだ すけいちろう)、旧芸名尾上 助三郎(おのえ すけさぶろう)、島田 照夫(しまだ てるお)[1][2][3][4]。 人物・来歴1918年(大正7年)11月23日、愛媛県上浮穴郡久万町(現在の同県同郡久万高原町久万)に生まれる[1][2]。父は俳優の尾上華丈、戦後に東映の俳優として活動した島田秀雄は実弟[1]。 父が所属する日活大将軍撮影所に幼少のころから遊びに行き、「助ぼん」と呼ばれてスタッフや俳優たちに親しまれているうちに、1924年(大正13年)、満5歳のときに築山光吉監督の『三日月次郎吉』(同年6月12日公開)に出演、「尾上 助三郎」の名で子役俳優としてデビューした[1][2]。1927年(昭和2年)5月22日に公開された伊奈精一監督の『凱旋少年』では、主役を果たしている[1][2][3]。俳優業の傍ら、京都商業学校(現在の京都学園高等学校)実修科に進学したが、学業は中途退学した[1][2]。数え年19歳となった1936年(昭和11年)ころ、「島田 照夫」と改名した[1]。この改名時期は『日本映画俳優全集・男優編』や日本映画データベースによれば、同年9月17日公開、尾崎純監督の『鼠小僧唄祭』だとされ[1][3]、日活データベースによれば、翌1937年(昭和12年)6月17日公開、池田富保監督の『唐人お吉 黒船情話』からであるとする[5]。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、片岡(当時は島田)は同社に継続入社する[1][3]。1948年(昭和23年)、結婚した[1]。 1949年(昭和24年)、片岡千恵蔵とともに大映を退社、東横映画に移籍する[1][3]。1951年(昭和26年)4月1日の合併による東映設立後も、引き続き、東横映画撮影所の後身である東映京都撮影所に入社した[1][3]。1955年(昭和30年)3月13日に公開された、内出好吉監督の『彦佐と太助 俺は天下の御意見番』で一心太助役を演じた際に、「片岡 栄二郎」と改名した[1][3]。 1966年(昭和41年)6月、聴力障害のため東映を退社した[1][3]。その後も1968年(昭和43年)ころまでは、テレビ映画に出演していた[6]。1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集・男優編』によれば、同誌執筆の時点(満60歳ころ)では、京都市右京区太秦に住み、親戚の経営する大阪府の増井鉄工に勤務している旨の近況が書かれている[1]。私生活では、2男1女をもうけた[1]。 1983年6月19日死去[7]。64歳没。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[3]。役名のわかるものは公開日の右側に記し[3]、東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][9][10]。 日活京都撮影所特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」「日活大将軍撮影所」あるいは「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[3]
大映京都撮影所特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「大映」である[3]。すべて「島田照夫」名義[1][3]。
東横映画特筆以外すべて製作は「東横映画」、配給は「東京映画配給」である[3]。すべて「島田照夫」名義[1][3]。
東映京都撮影所![]() 特筆以外すべて製作は「東映京都撮影所」、配給は「東映」である[3]。特筆以外すべて「片岡栄二郎」名義[1][3]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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