牛田成樹
牛田 成樹(うしだ しげき、1981年12月6日 - )は、徳島県小松島市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 愛称は「牛くん」[1]。 経歴プロ入り前高校時代は徳島商業高校の野球部に所属し、1999年の第81回全国高等学校野球選手権大会に出場。 明治大学に進学し、大学の同期には呉本成徳、岡本篤志や佐藤賢がいる。東京六大学リーグ戦41試合に登板、6勝5敗、防御率2.61を記録[2]。 プロ入り後2004年7月28日の東京ヤクルトスワローズ戦で初登板した。 2006年、本来は中継ぎ・抑えの投手ながら、5月9日のイースタン・リーグ対インボイス戦で先発。8回2アウトまでノーヒットノーランを続けたが水田圭介にヒットを打たれた。結局9回をこの1安打のみにおさえて完封勝利。一軍の試合でも7月11日に札幌ドームでの対読売ジャイアンツ戦、8回2失点でプロ初勝利を挙げている。 2007年シーズン序盤は、中継ぎ投手として一軍で出場するも、5月7日に急性大腸炎のため横浜市内の病院に入院。翌日登録を抹消された。入院で体力が落ちたこともあり、その後は1度の一軍登板のみでシーズンを終えた。 2008年は右足首骨折で出遅れたが、8月に戦列復帰し中継ぎで23試合に登板した。 2009年、一軍では中継ぎとして4試合の出場にとどまった。教育リーグに参加したが新型インフルエンザに感染し隔離された。 2010年、春季キャンプは二軍スタートとなったが、一軍キャンプの紅白戦に呼ばれ、奪三振ショーを魅せつけた。独自の筋肉トレーニングも実を結んで、オープン戦で好投し開幕一軍を果たすと、抑えの山口俊へと繋ぐセットアッパーとして活躍。このシーズンに活躍した牛田成樹(Shigeki Ushida)・江尻慎太郎(Shintarou Ejiri)・山口俊(Shun Yamaguchi)・真田裕貴(Hiroki Sanada)の4選手は、投手コーチの野村弘樹から「クアトロS」と呼ばれた(かつてのクアトロKになぞらえたものである)。3年ぶりの白星を挙げた3月31日の巨人戦ではお立ち台で「やじられないように投げた」などと語り、ファンを笑わせた。6月17日には、右肩骨挫傷により一軍登録を抹消されるものの、9月に復帰後もセットアッパーとして安定した投球を続け、自己最高の成績を残した。 2011年は腰痛で開幕を出遅れるものの、5月に戦線に復帰するとセットアッパーとして活躍。しかし夏場に入ると打ち込まれるケースが目立ち、一時二軍落ちを経験。結局自己最多の45試合に登板するものの、防御率は前年より悪化した。 2012年はインフルエンザで開幕に出遅れ、6月に一軍に復帰。しかし6月27日のヤクルト戦で2イニングを4失点と炎上し登録を抹消。そのままシーズンを終え、僅か5試合の登板に終わった。 2013年は1度も一軍に昇格出来ないまま、10月3日に球団より戦力外通告を受けた[3]。11月20日、自身のFacebook上で現役引退することを表明した。 引退後2015年2月27日、四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスの投手コーチに就任することが発表された[4]。2シーズン務め、この間にチームの投手からは吉田嵩・福永春吾・木下雄介がNPBドラフト会議で指名を受けた(吉田と木下は育成選手枠)。 2016年シーズン終了後の12月26日、退任が発表された[5]。 2020年からは古巣・横浜DeNAベイスターズの二軍投手コーチに就任し、2021年まで務めた。 2022年からは球団職員として野球教室やスクールなどの指導に従事[6]。2025年からは球団広報。 選手としての特徴投球の途中で一度三塁側に顔を向ける独特のフォームから平均球速約140km/h[7]、最速149km/hのストレートと大小2種類のフォークボールを投げ込む。また、時折スローカーブも織り交ぜて投球を組み立てる。2010年春キャンプでは監督の尾花高夫からシュートを直伝された[8]。 人物大学時代は深夜自主トレを頻繁に行っていたため、警察官から職務質問を5回受けたことがある。 趣味、特技はどちらとも阿波踊り、2007年4月29日のヒーローインタビュー(お立ち台)でも阿波踊りを披露している。 半袖のアンダーシャツを好み、春先やシーズン終盤の寒い時期でも半袖で登板する。本人の言では「腕を思いきりふるために長袖はまとわり付いて邪魔になるから」とのことである[9]。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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