狂恋 (1935年の映画)
『狂恋』(きょうれん、Mad Love)は、1935年に公開されたアメリカ合衆国のホラー映画。モーリス・ルナールの小説『オルラックの手』が原作。ドイツ出身の撮影監督カール・フロイントがメガホンを取った。主演は同じくドイツ出身のピーター・ローレ。他に、フランセス・ドレイク、コリン・クライヴが出ている。 舞台はパリ。鉄道事故で両手を失ったピアニストのオルラックに、天才外科医ゴーゴル博士[2](ピーター・ローレ)が死刑囚の手を移植する。その日からオルラックは殺人衝動に悩まされる。一方、ゴーゴル博士はオルラックの妻で女優のイヴォンヌに狂恋する。そして、ついに恐れていた殺人事件が起きる。同じ原作の映画化『芸術と手術』(1924年)はオルラックが主人公だったが、本作は外科医を主人公にしている。 本作はカール・フロイントの最後の監督作であり、ピーター・ローレのアメリカ映画デビュー作である。ローレの演技は批評家から絶賛されたが、興行的には失敗した。映画批評家ポーリン・ケイルは映画としては満足できるものではないが、『市民ケーン』への影響を指摘している。撮影監督グレッグ・トーランドは両作品でカメラを回している[3]。 しかし近年は作品の評価も高まり、カルト映画の古典とされている[4]。 2014年にブロードウェイからリリースされたDVDのタイトルは『狂恋:魔人ゴーゴル博士』[5]。 キャスト
ローレは本作より先にコロンビア ピクチャーズ『Crime and Punishment』(監督はジョセフ・フォン・スタンバーグ、原作はドストエフスキー『罪と罰』)のラスコーリニコフ役でアメリカ映画主演デビューをするはずだった[6]。しかし、公開が遅れたため本作品がデビューとなった[7][8]。 イヴォンヌ役のフランセス・ドレイクはヴァージニア・ブルースの代役[6]。ドレイクはイヴォンヌに似せた蝋人形も演じた(一部は人形)[9]。 コリン・クライヴはワーナー・ブラザースからのレンタル[7]。 制作MGMにルナールの『オルラックの手』の企画を提案したのはフローレンス・クルー=ジョーンズ[10]。ガイ・エンドールがカール・フロイントともに草案を練った[10]。プロデューサーのジョン・W・コンシダイン・Jr.は台詞及び撮影台本をP・J・ウルフソンに依頼[10]。1935年4月24日、ジョン・L・ボルダーストン がそれをブラッシュアップ[7]。ボルダーストンは『M』(1931年)のローレを念頭に置いて台詞を執筆[7]。クランクインしてからも3週間かけてリライトを続けた[11]。 クランクインは1935年5月6日[11]。撮影監督はチェスター・A・ライアンズだったが、フロイントはグレッグ・トーランドを推し、「8日間の追加撮影」の名目でトーランドを起用する[11]。女優のドレイクはフロイント、トーランド、そしてコンシダインの間で苦労したと回想している。「フロイントは撮影監督も兼任したかった」。さらに、「誰が監督なのかわからなかった。実を言うと、プロデューサーは監督をやりたがっていた、演出のことなんかまったくわかっていないのに」[12]。タイトルについても迷走した。1935年5月22日の段階でMGMは『オルラックの手(The Hands of Orlac)』と発表した[13]。他に『パリの狂った医師(The Mad Doctor of Paris)』というのもあったが、結局元々のタイトルだった『狂恋(Mad Love)』に落ち着いた[12]。予定より一週間オーバーして、1935年6月8日に撮了[13]。初公開後、MGMは15分ほど短縮[14]。削られたシーンは殺人犯ロロの手を切断するシーン、『フランケンシュタイン』で使われた本編前の前口上、そしてイザベル・ジュエル演じるマリアンヌのシーンすべて[14]。 公開アメリカでの封切りは1935年7月12日[15]。イギリスでは『Hands of Orlac』というタイトルで1935年8月2日に公開された[16][17]。全英映像等級審査機構のエドワード・ショートは上映禁止の意向を表明した[18]。 反応批評はもっぱらローレの演技に集中した。「ローレは本当の恐怖の造形を成し遂げた」(『ハリウッド・リポーター』)[13]。「文句なしのはまり役」(『タイム』)[14]。作家のグレアム・グリーンはローレの演技を「納得」とし[18]、チャールズ・チャップリンも「すばらしい俳優」と評価した[14]。しかし、それ以外の俳優については不評だった。「テッド・ヒーリーは素晴らしいコメディアンだが出る映画を間違えた」(『ニューヨーク・タイムズ』)[19]。「(コリン・クライヴは)ずっといらいらしている」(『ハリウッド・リポーター』)[14]。 作品としての評価はというと、「重要な作品でもないし注目する作品でもない。アート作品と商業作品の中間」(『ハリウッド・リポーター』)[14]。「徹底して怖い」(『タイム』)[1]。「せいぜいスーパー・ボリス・カーロフのメロドラマといったところ。面白いがグラン・ギニョールのちょっとしたやつ」(『ニューヨーク・タイムズ』)[20] 興行的にはヒットにはいたらなかった。収益はアメリカ国内で170,000ドル[1]、海外で194,000ドル[1]。 近年ポーリン・ケイルはその著書『スキャンダルの祝祭』の中で、オーソン・ウェルズは『市民ケーン』で本作のヴィジュアル・スタイルを模倣したと述べている[3][21]。具体的には、ゴーゴル博士とケーンはともに丸坊主、ゴーゴルの家とケーンのザナドゥの類似、ペットのオウムがその理由[21]。さらにトーランドは「フロイントのテクニックをウェルズに伝授した」とも書いている[21]。1972年、ケールのこの説にピーター・ボグダノヴィッチは『エスクァイア』誌で反論した。二人は作品の評価でも意見が割れ、「物寂しい静的なホラー映画」と評価するケイルに対して、ボグダノヴィッチは「これまで見てきたワースト映画の1本」と酷評した[21]。 より新しいところではロッテン・トマトの一般ユーザーのスコアで82を獲得するなど[22]、評価が高まっている。 関連項目出典
外部リンク
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