現代演劇協会(げんだいえんげききょうかい、Institute of Dramatic Arts、DARTS)は、かつて存在した日本の芸術団体。1963年設立、2013年解散[1]。
概要
1963年1月、構想を表明。同年5月、財団法人設立の認可を受け、正式に発足[2]。
附属劇団に『雲』(1963年 - 1975年)、『欅』(1965年 - 1975年)、『昴』(1976年 - 2006年)。附属劇場に『三百人劇場』(1974年 - 2006年)。
2013年11月、解散。残余財産は公益財団法人『新国立劇場運営財団』に寄附[3]。
経緯
1963年1月14日、『新芸術運動』を標榜する構想が新聞報道により公になる。文芸評論家の福田恆存を中心として、半年余り前から協議が重ねられて来たものであった[4]。時を同じくして『文学座』の中堅・若手俳優など総勢29人が脱退届を提出。全員が同構想への参加を表明する[5]。
これは単なる劇団の分裂とか脱退というものではない。より大きな構想をもった芸術上の動きである。その具体策については十四日午後発表したい。
— 新しい芸術運動を 福田恆存氏の話[6]
同日午後、東京會舘・真珠の間において記者会見が行われる。出席した27人を代表して福田恆存により創立声明書が読み上げられる[7]。
明治末期の
文藝協會・
自由劇場に始る
新劇の歷史は、
大正十三年の
築地小劇場運動によつて、漸くその軌道に乘つたものと言へませう。が、それから三十餘年を經た今日、新劇界は早くも當初の理想と情熱とを失ひ、しかも據るべき
傳統はつひに形成されず、依然として混迷のうちに停滯しながら、その不安を専ら獨善的な自己滿足の蔭に糊塗してゐるかに見えます。
新劇が西洋の演劇を範として出發したものである事は、言ふまでもありませんが、その際、當時の運動の擔ひ手達が犯した過ちの第一は、「西洋」の魅力と「演劇」の魅力とを混同し、後者より寧ろ前者の虜となつた事であります。そのために新劇は演劇に奉仕する前に、まづ日本の近代化に奉仕する事になりました。卽ち、それは西洋の思想・社會・風俗の新しさに憧れる文明開化運動の一翼を擔はされる事になり、やがて時代の推移と共に尖鋭化して、政治運動へと先細りして行かざるを得なくなつたのであります。
彼等の犯した過ちの第二は、數百年に亙る長い歷史の末端に位する西洋の「近代」あるいは「現代」の演劇に過ぎぬものを、直ちに「西洋」の演劇そのものと誤認した事であります。なるほど西洋においては、それら自然主義・表現主義の運動が、傳統の固定化、形式化による墮落から、演劇を救ひ出さうとするものであつたといふ事實は、あながちに否定し得ません。が、歷史を全く異にする吾が國に移し入れられた時、それらはただ演劇をその傳統から斷ち切り、單に近代的衰弱に追ひ込む否定的な役割しか果す事ができなかつたのです。卽ち、新劇は日本の演劇傳統に對して全き絕緣を宣言したばかりでなく、西洋の演劇についても、古典の源流にまで溯り、その本質を探らうとする姿勢を採る事なく、現在に至るまで唯ひたすら近代劇・現代劇としての自律と完成とに小成を求めて來たと言つても過言ではありますまい。
しかし、第三に、傳統と本質とを無視して、それみづからにおいて完成し、自律性を獲得しようと焦れば焦る程、それは他の藝術や文化とはもちろん社會一般との繫りを斷たれて、閉鎖的、排他的な世界を形造り、その狹い職業意識の殻の中に閉ぢ籠らざるを得なくなりました。事實、今日の新劇は外部からその未熟と遲れとを絕えず嘲笑されながら、己れと最も密接な關係にあるべき筈の文學や文壇とさへ絕緣し、頑なにその門戶を開かうとしないのであります。
これらの禍根はいづれも築地小劇場運動そのもののうちに潛んでをります。私共もまた多かれ少かれその弊風に禍されてをりませう。が、その自覺こそ、私共に殘された唯一の共有財產であります。故に、むしろ私共はみづから努めて自足の殻を打ち破り、無から出發しようとする決意のもとに、同行相求めて今日に至つたのであります。私共の目的は單に劇團を造る事にあるのではなく、文藝協會・自由劇場設立當時の初心に立返り、新劇の目ざすべき「劇」とは何かを問ひ正し、その傳統形成の礎石となる事にあります。もちろん私共は演劇が藝術であると同時に娛樂である事を無視するものではありません。ただ、戰前の新劇が觀客に向つて苦行的陶醉を强ひた風潮を否定すると同時に、今日その反動として大衆社會化の波に乗り、いたづらに卑俗安易な迎合に陷りがちな風潮にもまた抵抗を感じるものであります。
ここに私共は現代演劇協會なる構想のもとに
演劇集團「雲」を組織し、以上の趣意に基づく行動を開始する事を誓ひ、皆様の御理解と御支持とをお願ひ申上げる次第です。
— 現代演劇協會雲創立聲明書[8]
同時に幅広い文化活動、総合的な演劇事業を進める事が表明される[9][10]。
- 「公演活動」
- 「海外演出家の招致、日本人演出家との共同演出」
- 「演出・演技のための研究機関(アクターズ・スタジオ)の設立」
- 「同人の海外留学」
- 「定本となるべき世界戯曲譯書の編集・刊行」
- 「演劇図書館の設立」
- 「機関誌の編集」
同年3月、砂防会館ホールにて旗揚公演『夏の夜の夢』を上演。同年5月、財団法人設立の認可を受け、改めて『雲』を附属劇団とする[11]。
役員名
事業
公演
劇団雲、劇団欅、劇団昴も参照。
演劇図書館
理事や外国の財団から寄贈されたものを中心に約5000冊の演劇関係書を収める。初演時からのパンフレットも全冊所蔵[12]。
演劇教育
1981年、理事長の福田恆存が演劇の理論書を上梓する。
その演劇観に基づいて総論、戯曲論、翻訳論、演出論、演技論などを述べる。種々の演劇学校やその他からの要望も踏まえ、教科書としても資するよう体系的に編纂する[13]。
演劇の上演臺本を戲曲と稱し、その戯曲は
せりふ、卽ち言葉によつて書かれた
文藝作品である。勿論、それは
役者と
演出家によつて舞臺の上に生かされて初めて完成する。だからといつて戲曲は未完成の、或は粗末な文學作品だとは言へない。上演を俟たねば完成しないとはいへ、戲曲の内部に潛在しないものは、役者や演出家が如何に七轉八倒しようとも、それを舞臺の上に生かす事は出來ない。戲曲は文學作品であり、その完成に手を貸す役者や演出家の仕事は文學的行爲である。
— 醒めて踊れ──「近代化」とは何か[14]
現在の新劇は完全な自己喪失に陥つてゐる。自分の素姓を知らないし、また知らうともしてゐない。自分が何であり、何をもつてゐるか、それを自覚してゐないし、自覚しようともしてゐない。新劇の自覚は、ただ自分が何でないか、何をもつてゐないか、それのみにかかはる。いたづらに周囲を見まはし、他の類似
芸術の存在が気になつて仕方がないといふ状態である。それらの素姓や前途に想ひをいたし、その財産目録を点検して、それがいづれも何ものかであり、何ものかをもつてゐるにもかかはらず、自分だけが何ものでもなく、何ものをももつてゐないことに、大きな不安と劣等感とをいだくのである。(中略)
以上で私の新劇史診断を終る。改めて結論を述べるまでもあるまい。新劇は過去のあらゆる錯覚から解放されて、やうやく出発点に立つたのである。が、錯覚によつて生きてきたものは、錯覚を失ふことによつて不安を感じ、それを恐れて、ふたたび錯覚を求めはじめる。しかし新劇は「演劇」に直面することを避けて、「演劇」以外のものに色眼を使つてはならない。自分のうちに無いあらゆるものに気づきながら、一番手近な文学のないことに気づかぬのは奇妙である。私の主張は単純である。正統的な
せりふ劇の基盤を造ること、それを措いて他にない。
— 『演劇入門』 日本新劇史概観[15]
1993年から20年間、英国の王立演劇学校(RADA)より俳優教育担当者を招聘する[11]。イギリスの王立演劇学校(RADA)より20年間に亘り、校長以下の俳優教育担当者を招待し、共通言語の導入を提唱する。演技術(規準)に共通項を持たない日本の俳優、演劇界に対して、「役者とは何か」、「演技とは何か」と再考を促す目的から計画された[16]。同協会は役者に存在している「学校の違い」などの縄張り意識の追放を設立趣旨の一つとしていた[17]。
日本の演劇界や俳優に共通言語としての演技術を学ぶ機会を提供する目的から計画される。初年度は校長のニコラス・バーターが来日し、2週間のワークショップを開催。英国の演劇界が共通して学ぶ俳優訓練が初めて日本に系統立てて紹介される[18]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク