田中克己 (詩人)
田中 克己(たなか かつみ、1911年(明治44年)8月31日 - 1992年(平成4年)1月15日)は、日本の詩人・東洋史学者。 生涯
1911年、大阪府で生まれた。東京帝国大学東洋史学科で学び、1934年に卒業。在学中の1932年、保田與重郎、肥下恆夫、中島栄次郎、松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己ら大阪高等学校同窓生と文芸同人誌『コギト』を創刊。1936年堀辰雄の推挙により、詩誌『四季』(第2次)同人となり、津村信夫や神保光太郎と共に編集にも携わった。1941年詩文集『楊貴妃とクレオパトラ』で第5回北村透谷記念文学賞受賞。
1942年1月、文士徴用軍属の第2陣として北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと共に南方戦線後方(シンガポール・スマトラ)へ派遣された。年末に帰国。1945年3月に応召入隊。二等兵として河北省に出征。敗戦とともに現地除隊となった。北京、天津へ移動し、1946年2月に帰還を果たした。
敗戦により皇国史観を捨て、のち1962年キリスト教(プロテスタント派)に改宗した。 戦後は天理図書館、滋賀県立短期大学、帝塚山学院短期大学に勤務。帝塚山学院短期大学では杉山平一と小野十三郎が同僚であった。その後東洋大学に転じ、1959年より成城大学教授。この間、天野忠、井上多喜三郎、小高根二郎ら関西の詩人達と詩誌『コルボウ』『詩人学校』『骨』『果樹園』を創刊して交わった。晩年、第5次『四季』を再刊主宰。1982年に成城大学を定年退任し、名誉教授となった。1992年に死去。 受賞・栄典研究内容・業績研究者としては、唐宋漢詩に造詣が深く、李白をはじめとする多くの訳書・評伝を残した。博識な語学力を生かして、余技のドイツ語においてもハイネ訳詩集を出しており、版を重ねた。
癇癪が持ち前であり、詩人としての顔をもつ。昭和10年代の詩壇において主に『コギト』『四季』『文藝文化』など抒情詩精神を標榜する同人誌を中心に活躍した。初期にモダニズムの影響を蒙るも、所謂『日本浪曼派』の文化圏にあって(自身は同人に未加入)、同じく硬質の抒情を能くした伊東静雄のライバルと目された。 著作
参考
外部リンク
脚注
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