由良ノ海楫五郎由良ノ海 楫五郎(ゆらのうみ かじごろう、1793年〈寛政5年〉 - 1852年11月22日〈嘉永5年10月11日〉)は、粂川部屋及び雷部屋に所属した元力士[1]。 本名は益子とのみ伝わっている。身長,体重は不明。出身地は下野国那須郡(現在の栃木県那須郡那珂川町)[2]。 最高位は東前頭4枚目。 幼少の頃から実力があるとみなされ、1816年3月に四海浪 吉五郎(しかいなみ きちごろう)の名前で初土俵を踏んだ際には、いきなり西前頭6枚目に附出された(幕内付出。江戸時代に横行した。幕下付出#幕下・三段目以外の付出の項を参照)。一部資料には1816年(文化13年)3月場所で「戸田川吉五郎」から「四海浪吉五郎」改名したとの記述もあるが[3]、当場所の番付の「四海浪 吉五郎」には「戸田川改」とは記されていない[4]。 しかし厳しいプロである大相撲の世界は甘くなく、1818年2月場所千秋楽の荒戸川戦で白星を挙げる[5]まで丸2年勝てない日が続いた。この間、同場所で記録した八十嶋冨五郎の26連敗を塗り替える27連敗の最多連敗記録を樹立した[6]。当然の如く番付は急降下し、次の1818年10月場所では凱歌 吉五郎(がいか きちごろう)と改名したが全休、翌1819年3月場所も5戦全敗を記録し、四股名を四海浪 吉五郎に戻した1820年3月場所では二段目10枚目以下(現在で言うと幕下陥落)になってしまった[7]。 その後数年間は二段目に低迷し、二段目10枚目以内(現在で言うと十枚目)とそれ以下を往復し、その間の1822年10月場所で由良ノ海 楫五郎 (ゆらのうみ かじごろう)に改名した[7]。1824年10月場所で東二段目6枚目となってからは、二段目10枚目以内に定着し、この頃には相撲のコツも掴んでいたせいか、徐々に白星も積み重ねるようになっていた。相変わらず黒星が先行する状態だったが、何故か番付は場所を追う毎に上昇していった(例.1826年10月場所では、西二段目3枚目で7戦全敗なのに、翌1827年3月場所では西二段目3枚目に留め置かれている)[1]。そして、1828年3月場所で東前頭7枚目となり再入幕を果たした。再入幕後は幕内でも5割前後の勝率を残した。1832年11月場所には幕内番付外に据え置かれる悲運があるも、1833年11月場所では5勝1敗2分の優勝同点という好成績を挙げた(5勝1分1預1休の成績を挙げた黒岩森之助が優勝相当成績と見なされている)。再び二段目に陥落した1837年10月場所より、1819年以来途絶えていた3代湊川を名乗り、二枚鑑札となった。下の名前も含めれば、1837年10月場所は湊川 四郎右衛門(みなとがわ しろうえもん)、1838年2月場所と同年10月場所は湊川 由三郎 (みなとがわ よしさぶろう)を名乗った[7]。1838年10月場所限りで現役引退し、年寄専務となった。弟子からは湊川四良兵衞(最高位:東前頭5枚目。のち5代湊川)を育て、「湊川部屋中興の祖」と謳われた[2]。年寄在任中の1852年10月11日に死去。59歳だった。 故郷・馬頭町の大山田下郷の愛宕神社に「永代御祭礼角力、湊川由三良土俵」の額がある[8]。 主な成績江戸相撲のみ示す。
場所別成績
改名歴
出典
外部リンク
関連項目 |
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