畑山隆則 対 坂本博之戦

畑山隆則 対 坂本博之
開催日 2000年10月11日
認定王座 WBA世界ライト級
開催地 横浜
会場 横浜アリーナ
観衆 16,000人[1]
リングアナ ケイ・グラント
放送局 TBS系列
実況・解説 石川顯
鬼塚勝也
竹原慎二
視聴率 22.5%(関東地方)[1]
主催 横浜光ボクシングジム

畑山隆則 対 坂本博之
平成のKOキング
比較データ
25 年齢 29
日本の旗青森県青森市 出身地 日本の旗福岡県田川市
23勝(18KO)1敗2分 戦績 35勝(25KO)4敗
173 身長 170.3
右ボクサーファイター 特徴 右ファイター
WBA世界ライト級王者 評価 WBA世界ライト級14位

結果 畑山の10回TKO勝ち
主審 内田正一(日本)
副審 森田健(日本)
ピニット・プラヤドサブ(タイ)
ヘスス・コバ(ベネズエラ)

畑山隆則 対 坂本博之戦(はたけやまたかのり たい さかもとひろゆきせん)は、2000年10月11日に横浜アリーナで行われたプロボクシングWBA世界ライト級タイトルマッチである[2]。日本ボクシング史上屈指の名勝負と言われる。

解説

畑山は同年6月に獲得したWBA世界ライト級タイトルの初防衛戦であり、坂本にとっては実に4度目の世界タイトル挑戦であった。両者はプロデビュー当時から比較され、対照的なボクシング人生を歩んできた。

畑山は1998年に2度目の挑戦で崔龍洙に判定勝ちし、WBA世界スーパーフェザー級チャンピオンを獲得。しかし、2度目の防衛戦でラクバ・シンに5回TKO負け(プロ初黒星)を喫し、23歳で引退を表明。所属する横浜光ジムのトレーナーに転身したが、宮川和則会長の「俺は坂本との試合が見てみたいなぁ」という言葉で半年後にカムバックを決意した[3]。一階級上のライト級に上がり、1年のブランクを経て、現役復帰戦でWBA世界ライト級王者ヒルベルト・セラノを8回KOで破り2階級制覇を達成した。世界的に選手層の厚いライト級での日本人チャンピオン誕生は、ガッツ石松以来24年ぶりという快挙であった。畑山は勝利者インタビューで今後について聞かれると「次は坂本選手とやります」と宣言した[1]。王者が次期挑戦者を名指しするという、異例のリングパフォーマンスに会場は大いに沸いた。

坂本は「平成のKOキング」「国内ライト級最強」と呼ばれながら、世界タイトル戦では1997年(判定負け)、1998年(判定負け)、2000年(5回TKO負け)とチャンスを逃してきた。3度目の世界戦は王者セラノから1ラウンドに2度のダウンを奪うも、まぶたからの出血によりドクターストップとなった。それから3ヵ月後、畑山がセラノを破り世界ライト級王者に就く姿をリングサイドで観戦し、リング上から挑戦者指名を受けた。

若くして成功しスター性十分の畑山と、児童養護施設出身で苦労を重ねてきた坂本。軽快なフットワークと多彩なコンビネーションをもつ畑山と、愚直に前進し重い左フックで相手をなぎたおしてきた坂本。色々な面で注目点はあったが、スーパーフェザー級から階級を上げてきた畑山と、ナチュラルなライト級の坂本が戦えば、体格に勝る坂本の方が有利ではないかという下馬評もあった。畑山はそうした評価に腹を立てたという。坂本戦のために現役復帰したというモチベーションに加え、スーパーフェザー級時代に苦しんできた減量から解放され、最高のコンディションに仕上がっていた[4]。坂本の方はライト級への強いこだわりから10kg以上の減量に耐える競技生活を続けてきた上に(のちに手術することになる)腰の痛みを抱えていた[5]

なお、両者は以前スパーリングで3度拳を合わせている。坂本はトレーナーのイスマエル・サラスと畑山対策を練る中で「あれくらいのパンチでは俺は倒れない」と確認しあい、攻撃型のデトロイトスタイルを取り入れた[6]。左ガードを下げるこの構えは顔面に被弾するリスクが高まるが、畑山をおびき寄せ、坂本得意の左フックを出しやすくするという狙いがあった。一方、畑山は試合前のインタビューで「彼は顎に自信を持ってるんですよ、僕は顎に自信がないんですよ。彼はパンチがあるんですよ、僕はパンチがないんですよ。だから、勝てるんですよ[7]」と謎かけのような発言をした。

試合展開

畑山対坂本戦の試合会場となった横浜アリーナ

戦前の予想では、畑山がアウトボクシングでペースを握り、坂本がそれを追いかけて打撃戦に持ち込もうとする展開が予想された。しかし、第1ラウンド開始早々から両者一歩も引かず、ハードパンチの応酬が繰り広げられた。畑山は「いいパンチをもらって頭に血が上った」ため打ち合いに応じてしまったが、ラウンド終了後にセコンドのルディ・エルナンデスに怒られ、すぐ冷静に戻ったという[8]

畑山陣営は中間距離で坂本が振り回してくるフックを警戒し、足を使って出入りしながら接近戦で勝負するイメージを持っていた。がっちりと両腕のガードを固めて距離を詰め、坂本の強打をしのいだ隙にフックショートアッパーのコンビネーションを打ち返し、また距離を取るというパターンであった。畑山はテクニックやセンスに目が向きがちだが、スーパーフェザー級時代のコウジ有沢戦や崔龍洙戦のようにタフなインファイトを苦にしていなかった。

この試合、坂本選手は少なからず、俺のパンチでは倒れないっていう自信を持っていたはず。だから、彼は俺に打たせてくれると思った。坂本選手は多少打たれてもっていう相打ち覚悟の勝負だ。俺には相打ちは許されない。しっかりガードして、相手が打ち終わった後に3発、4発打ち返すっていう、そういうボクシングだった。 — 畑山隆則、『強運ボクサー畑山隆則・自伝』182頁。

畑山の見立て通り、坂本は積極的に打ち合いに出て行ったが、秘策のデトロイトスタイルがはまったとはいえず、ガードの上から重いボディフックを叩きつけたが、畑山ペースの試合の流れを動かせなかった。また、セラノ戦でTKO負けの原因となった左まぶたの古傷が第1ラウンド早々に出血し、第4ラウンド途中にドクターチェックが入った。

畑山は「5ラウンドぐらいになったらもう勝てる感触だった[9]」という。ダメージの蓄積により動きが落ちてきた坂本に対し、離れた位置から放つ右ストレートと、接近戦のボディブローが的確にヒットした。第7・第8・第9ラウンドは畑山が好機を見てラッシュをかけ、坂本が懸命に持ちこたえ反撃するという攻防が続く。第9ラウンド終了後、坂本はセコンドに抱えられるようにコーナーへ戻った。

第10ラウンド開始間もなく、畑山が放った左フック・右ストレートのワンツーが坂本の顎を捉える。坂本は一瞬持ちこたえたあと、急に脚の力が抜けたように尻もちをついてダウンした。カウントが始まるのと同時に坂本陣営がタオルを投げ込み、第10ラウンド18秒[1]、劇的なノックアウトで決着がついた。坂本はプロ40戦目にして初のKO負けとなり、畑山はライト級初防衛に成功した。

畑山はフィニッシュブローについて、「スコーンという感じで打ちぬいたが、あまり手応えはなかった[9]」という。勝利の喜びもあったが、力尽きた坂本の姿に心が揺らいだ。畑山陣営は「左耳の上を右フックで叩いて三半規管を揺らす」という戦法を採っていたが、第9ラウンドに「交通事故のように耳の中から血が出始めたので、死んでしまうんじゃないか[9]」と不安になったという。畑山は第9ラウンド終了後、「大丈夫か?」と確認するように、坂本の胸を2回ポンポンと叩いていた。

試合後

畑山は勝利者インタビューで次の目標を聞かれると「ありませんね」と答えた。その後世界ライト級防衛戦を2度戦い、2001年7月にジュリアン・ロルシーに判定負けして2度目の引退をした。坂本戦のことは「キャリアを通してのベストバウト」と自認するが、それ以降の防衛戦については「やはり、坂本戦で燃え尽きてしまったのは否めないですね。あの試合のためにカムバックしたわけだし、それ以上求めるものがなかったんですよ」と述べている[10]

坂本は過去の世界戦で「相手のパンチでダメージを受けた感覚がなかった」というほど打たれ強さに自信を持っていたが、畑山戦は「自分の弱さを知った畑山と、自分の強さを過信した差がはっきりと出た」という苦い教訓を学んだ[11]。衝撃のKO負けから引退も噂されたが、階級をスーパーライト級に上げて現役続行。椎間板ヘルニアによる手術と長期ブランクをへてもなおリングにこだわり、7年後の2007年に37歳で引退した。

反響

参考文献

  • 畑山隆則著 『強運ボクサー畑山隆則・自伝』、祥伝社Boon最強列伝、2001年、ISBN 4396420234
  • 畑山隆則・原功二宮清純著 『昭和平成ボクシングを語ろう!』、廣済堂出版、2022年、ISBN 9784331523780

脚注

  1. ^ a b c d e ボクシング今日は何の日 畑山隆則vs.坂本博之 20世紀最後の白熱ビッグマッチから20年”. ボクシングニュース (2020年10月11日). 2023年1月15日閲覧。
  2. ^ 元プロボクサー、坂本博之さん引退記念イベント天神経済新聞 2007.07.05
  3. ^ “畑山隆則 引退の裏に隠された真実 2階級制覇へ筋書き通りに進んでいった復帰劇…前編”. スポーツ報知. (2024年4月16日). https://hochi.news/articles/20240412-OHT1T51304.html?page=1 2024年4月28日閲覧。 
  4. ^ 木村悠 (2021年10月18日). “レジェンド畑山隆則が語る「スポーツ選手でポジティブな人は成功しない」その真意とは”. Yahoo!ニュース. 2025年7月12日閲覧。
  5. ^ 魂の仕事人 第19回 元ボクサー 坂本博之 その四”. 人材バンクネット (2007年2月26日). 2024年4月28日閲覧。
  6. ^ 田中耕 (2022年12月16日). ““平成のKOキング”坂本博之はなぜ畑山隆則に敗れ、何を学んだのか?「自分を怪物だと思っていた」22年前、伝説の日本人対決の真実”. Number web. p. 2. 2023年1月15日閲覧。
  7. ^ 田中耕 (2022年12月16日). ““平成のKOキング”坂本博之はなぜ畑山隆則に敗れ、何を学んだのか?「自分を怪物だと思っていた」22年前、伝説の日本人対決の真実”. Number web. p. 4. 2023年1月15日閲覧。
  8. ^ 『昭和平成ボクシングを語ろう!』、177-178頁。
  9. ^ a b c 『昭和平成ボクシングを語ろう!』、178頁。
  10. ^ あの“カリスマ日本人対決”を畑山隆則が述懐!「ただ、ボクシングをやってきてよかったと思いたい…それが坂本戦でした」”. 週プレNews (2014年12月29日). 2023年1月15日閲覧。
  11. ^ “「平成のKOキング」坂本博之さん 2000年に世界王者・畑山隆則と激闘「過信した」と振り返る…前編”. スポーツ報知. (2023年6月9日). https://hochi.news/articles/20230607-OHT1T51090.html?page=1 2025年7月12日閲覧。 
  12. ^ <Number読者が選ぶ> ボクシング、伝説の激闘ベスト20!(国内編)”. Number web (2012年12月7日). 2023年1月15日閲覧。

外部リンク

Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia

Kembali kehalaman sebelumnya