石井敬之
石井 敬之(いしい けいし[1]、1893年(明治26年)12月18日[2] - 1975年(昭和50年)4月3日[2])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階勲等は正五位勲二等[3]。 経歴千葉県出身[2]。1915年(大正4年)12月、海軍兵学校第43期を卒業し[3]、1916年(大正5年)12月に海軍少尉に任官した[3]。その後「肥前」「常盤」「潮」各乗組や[3]、「千早」「若宮」各航海長兼分隊長などを歴任し[3]、1926年(大正15年)12月に海軍大学校甲種第26期学生となった[1][3]。1927年(昭和2年)12月、海軍少佐に進級し[3]、「鬼怒」航海長兼分隊長などを経て[3]、1932年(昭和7年)12月に海軍中佐に進級した[3]。その後、海軍大学校教官[3]、佐世保鎮守府参謀兼佐世保要塞参謀などを歴任した[4]。 1937年(昭和12年)12月に海軍大佐に進級し[4]、海軍艦政本部大阪監理官兼神戸監督官[4]、駐満海軍部附[4]、軍令部出仕を経て[4]、1939年(昭和14年)3月に在ソビエト連邦大使館附武官兼在フィンランド国公使館附武官に任命された[4]。1940年(昭和15年)11月に大湊要港部参謀長に就任し[4]、1942年(昭和17年)2月10日に「摂津」特務艦長を経て[4]、6月20日に「榛名」艦長に着任してガダルカナル島に出征[2][4]。ヘンダーソン基地艦砲射撃や南太平洋海戦などで力戦した[2]。1943年(昭和18年)5月1日に海軍少将に進級し[1][4]、7月15日に海務院船員部長・航海訓練所長に就任した[4]。同年8月には海事審議会専門委員[4]、厚生省勤労局参与などを務め[4]、11月1日に運輸通信省海運総局船員局長となり[4]、11月13日から高等海員審判所長を兼ねた[4]。 1944年(昭和19年)12月、軍令部出仕となり[4]、1945年(昭和20年)1月29日に佐世保鎮守府参謀長兼補給部長に就任して終戦を迎えた[2][4]。11月30日、予備役編入と同時に充員召集され[4]、佐世保地方復員局長官に就任し[4]、1946年(昭和21年)3月31日に第二復員省出仕・第二復員事務官となり[4]、4月12日に充員召集解除となった[4]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放の仮指定を受けた[5]。 年譜
脚注
参考文献
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