福島県立大野病院事件福島県立大野病院事件(ふくしまけんりつおおのびょういんじけん)は、2004年(平成16年)12月17日に福島県双葉郡大熊町の福島県立大野病院で帝王切開手術を受けた産婦が死亡したことにつき、手術を執刀した同院産婦人科の医師1人が、刑法の業務上過失致死傷罪と医師法違反の容疑で2006年(平成18年)2月18日に逮捕、翌月に起訴された事件である。 ![]() 2008年(平成20年)8月20日、福島地方裁判所は、被告人の医師を無罪とする判決を言い渡し[1]、福島地方検察庁が仙台高等裁判所への控訴を断念したため、確定判決となった。医師は起訴休職中であったが、無罪を受けて同病院に復職した[2]。 マスメディアによる報道では「大野病院事件」といった呼称も用いられている。また特別弁護人として、現役の医師が選定された極めて珍しい裁判である。 診療経緯※以下は福島地方裁判所 平成18年(わ)第41号 判決文にて事実認定された内容に基づき要約し記載 当時の病院体制事件当時「福島県立大野病院」は、病床数約150床程度で地域医療病院として位置し、標榜科は「内科」「外科」「産婦人科」「整形外科」「麻酔科」であった。産婦人科は常勤医師1人体制であった。 輸血製剤は病院内に常備しておらず、輸血対応については、必要時に約50km離れた「福島県いわき赤十字血液センター」から1時間以上かけて輸送されていた。 本件医師は、福島県立医科大学産婦人科の医局に所属し、事件と同じ2004年4月に福島県立大野病院に赴任してきており、事件当時の経験年数は8年7か月であった。 妊娠経過事件当時29歳の妊婦は、3年前に第一子を「双葉厚生病院」で帝王切開にて出産している。2004年5月に福島県立大野病院で第二子妊娠を診断され、以後同院に通院管理となっていた。同年10月の超音波検査で「全前置胎盤」と診断。同年11月に切迫早産もあり同院に入院管理となった。手術6日前に本件医師は妊婦と夫に対して、帝王切開での分娩について説明し、場合によっては「輸血」「子宮摘出術」の可能性を話し、手術承諾書に同意をもらった。また、何かあれば前回帝王切開分娩を施行した双葉厚生病院の担当医師に応援に来てもらえるように話してあると伝えた。そしてこの説明の際に妊婦と夫からは「子宮を必ず残して欲しい」という具体的要望は無く、本件医師が「3人目も欲しいですか」と聞いたところ肯定したのみであったとのことであった。 手術前本件医師は同院赴任後に、別の前置胎盤の妊婦に対しての帝王切開での分娩を施行し、無輸血で施行し得ていた。 本件医師は、手術室に「帝王切開」と「単純子宮全摘出術」の予定を伝え、術前準備輸血として「RCC(照射濃厚赤血球輸血)」5単位の用意を指示した。また、担当麻酔科医(日本麻酔科学会専門医)と手術補助の外科医(医師歴5年目)に対して、左記予定手術内容と、「何かあれば前回帝王切開分娩を施行した双葉厚生病院の担当医師に応援に来てもらえることになっている」旨を伝えた。 手術3日前に、本件医師の医局の先輩医師が勤務の際に、本件医師に対して「癒着胎盤であった場合は出血が多くなって人手を要する手術になることもあり、医局に相談してもよいのではないか」とアドバイスされたが、「何かあれば前回帝王切開分娩を施行した双葉厚生病院の担当医師に応援に来てもらえることになっている」と伝えた。 同院の助産師より、帝王切開時の術中大量出血の可能性を考慮し、当院の体制では不十分なので転院について進言があったが、本件医師は大丈夫であると伝えた。 手術当日に、前回帝王切開分娩を施行した双葉厚生病院の担当医師に、電話にて「本日、前回帝王切開分娩した妊婦が、全前置胎盤の帝王切開を行うこと」「何かあれば応援を頼むかも知れない」ことを初めて伝えた。同医師からは「前回帝王切開創に胎盤が位置していないかどうか(癒着胎盤であるかの術前評価)」の術前MRI検査施行の有無を聞かれたが、施行していないが大丈夫である旨を伝えた。また本件医師が同医師に過去応援を依頼したことは一度も無かった。 手術2004年12月17日に、妊娠36週6日に本件手術が行われた。
医療事故調査委員会翌2005年1月に病院設置者である福島県が「医療事故調査委員会」を設置し、同年3月22日に調査結果を報告している。 ※県立大野病院医療事故調査委員会 報告書 平成17年3月22日 に基づき記載 調査委員
調査結果
福島県は医療側に過失ありとした上で、医賠責保険で保険会社から遺族への補償支払をスムーズにしようとした。 この報告書により、後述の逮捕から1年前の2005年6月に執刀医は福島県から減給1ヶ月の処分を受けていた(無罪判決確定後の2008年10月に減給処分取り消し)[3]。 逮捕と起訴逮捕福島県の調査委員会の報告書がきっかけで、マスメディアにより『医療ミス』と大きく報道され、警察が捜査に動くことになる。2006年2月18日、福島県警察は手術を執刀した本件医師を「業務上過失致死」と「医師法に定める異状死の届出義務違反の疑い」で逮捕した[4]。 逮捕の2、3日前、医師は警察に「家宅捜査に入るから自宅待機するように」告げられた。捜査の後、警察への同行を求められ、警察署の取調室に入ったところで逮捕令状が読み上げられた。この逮捕については、「事前に警察からの情報を得たマスメディアが押しかけた中での逮捕となり、手錠をかけられた医師の姿が全国に報道される結果となった」というような噂話が広く流布されたが、本人自身が語った初公判後の記者会見で明確に否定された[5]。 起訴2006年3月10日、福島地方検察庁は、本件医師を業務上過失致死と医師法違反の罪で福島地方裁判所に起訴した。福島地方検察庁次席検事(当時)の片岡康夫は「大量出血は予見できたはずで、無理に胎盤を剥がすべきではなかった」と起訴した理由を述べた。また、片岡は、「女性は医師を信頼していたのに麻酔で何も分からないまま亡くなった。この事実は軽視できない」と被害者感情にも触れている[6]。 裁判本事件は「刑事事件」としての訴追であり「本件医師が本件において刑事責任に問えるか」の裁判であった。 2007年1月26日、福島地裁で初公判が開かれ「忸怩たる思いがあるが、非常に切迫した状況の中で、冷静にできる範囲のことを精一杯のことをやった」と述べて起訴事実を否認した[7]。 公判第1回〜第12回公判が行われた。医学的な鑑定人は以下の通り。
2008年3月21日、論告求刑公判が開かれ検察側は「産婦人科医としての基本的注意義務を怠っており、過失の程度は重大。また夫と子供を持つ女性の死亡という結果も重大である」として禁固1年、罰金10万円を求刑した[8]。 判決2008年8月20日、福島地裁(鈴木信行裁判長)は被告人の医師に無罪判決を言い渡した[9]。医師である被告人の医療行為と患者の死亡の因果関係、胎盤癒着の予見可能性と結果回避可能性については検察の主張がほぼ認められたが、業務上過失致死罪では、検察が主張する生存可能性のある医療行為については、臨床現場の医師に行為義務を負わせるほどの標準的行為であるとは立証されておらず、医師法違反では、患者の死亡結果は過失なき診療行為をもってしても避けられなかった結果であるため、異状死には該当しないという内容であった[9][10][11]。
遺族側の主張
判決に対する評価判決に関して、朝日新聞は「判決は医療界の常識に沿ったものであり、納得できる。検察にとっても、これ以上争う意味はあるまい。控訴をすべきではない」「今回の件では、捜査するにしても、医師を逮捕、起訴したことに無理があったのではないか」、読売新聞は「そもそも、医師を逮捕までする必要があったのだろうか。疑問を禁じ得ない」、産経新聞は「大野病院事件はカルテの改竄や技量もないのに高度な医療を施した医療過誤事件とは違った。それでも警察の捜査は医師の裁量にまで踏み込んで過失責任の罪を問うた」と警察と検察を直接的に批判し、無罪判決が出たことを明確に支持しただけでなく、間接的にではあるが遺族側の言動を批判する見解を示している[18]。 医療界や一般世論においても、無罪判決が出たことへの喜びと安堵の意を表する一方で、当事件は「事実上の冤罪事件」であるとして、一貫して医師側の過失を煽り立て続けたうえ、無罪が確定した後も主要マスコミの中で唯一起訴姿勢を擁護する論調を張った毎日新聞の報道姿勢と、警察・検察の言動を批判する声(後述参照)があがった[19]。 また、2007年1月に行われた初公判で検察側の首脳が「なんであんなものを起訴したんだ」と語ったことや、法廷において被告側の弁護団から「逃亡や証拠隠滅の恐れがないのに、逮捕するのは行きすぎだ」と批判されていたことが明らかになっている[19]。 警察・検察富岡署表彰問題2006年4月14日、本件捜査にあたった富岡警察署が医師逮捕について福島県警本部長賞を受賞した。これに対し、大阪府保険医協会は「逮捕に疑問の声が上がっているところの現在係争中の事案であり、まだ有罪が確定したわけではない」等として撤回を求める要求書を出した。また、2006年6月28日の福島県議会においても、民主社民党系会派の県民連合(当時)所属の本田朋議員が事件を「最善の手だてを尽くされたと思われる産婦人科医師が逮捕されるという異例の事態」と批判し、県警本部長表彰の基準を質す一般質問を行った。 医療行為を業務上過失致死罪に問うことへの批判本来的に結果の完全な予測が不可能な営みである医療行為について、「結果が予見出来たにもかかわらずそれを回避しなかったこと」を罪とする業務上過失致死罪の適用はナンセンスであり、これがまかり通るならば、出産を始めとするリスクを伴う医療行為を引き受ける者は存在しなくなるとの批判が出た[20]。 医師や医療現場に与えた影響報道では、地裁判決の直後においては「(無罪判決理由の中で医師の行為が結果として患者を死亡させるという因果関係を認めたため)医療内容に問題はあったが、医師の裁量の範囲内であり、有罪とまでは言えない」といった医師の行動を問題視する記事も出た[21]。 この医師逮捕に対しては、日本産科婦人科学会・日本産婦人科医会から「座視することができない」、「事件は産婦人科医不足という医療体制の問題に根ざしている。医師個人の責任を追及するのはそぐわない[22]」といったコメントが表明され、各地の地方支部からも抗議が表明された。日本母性保護産婦人科医会(現・社団法人日本産婦人科医会)は声明を発し「この様に稀で救命する可能性の低い事例で医師を逮捕するのは、産科医療、ことに、地域における産科医療を崩壊させかねない」と批判した[23][24]。 産婦人科医の宋美玄は2014年の『ヨミドクター』のコラムで、この事件が産科医不足を悪化させたと主張している[25]。当時、彼女のいた地域では診療科を変更したり分娩を扱う施設では勤務しなくなる産科医が続出し、残留した医師も多忙になりさらに辞める医師が出るという悪循環に陥っていたという[25]。 医賠責保険と医療ミス当初、医療専門家によって医療事故調査委員会は医師の過失を認める報告書を作成していたが、この報告書が警察の捜査や起訴を招くことになった。何故当初はこのような医師の過失を認める報告書を書いたのかというと、福島県が遺族への補償支払をスムーズにしようとするために、医賠責保険で保険会社から保険金を引き出すには、医師の過失が必要だったためである。 この事件をきっかけに、これらの問題を解決すべく、無過失保障制度の創設をすることが主張されている。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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