福渡温泉
福渡温泉(ふくわたおんせん)は、栃木県那須塩原市(旧国下野国)にある塩原温泉郷の一つの温泉。 国道400号を渓谷沿いに上り現れる塩原十一湯の2番目の温泉で、温泉宿が6軒ある[1]。 泉質効能
温泉街![]() 大網温泉から箒川の上流約2kmほどに位置し、左岸に古くからの温泉街が広がる[3]。右岸の下流寄りにキャンプ場やコテージ、テニスコートなどを備えた塩原グリーンビレッジがある。国道400号は、温泉街の中では上下線が離れた位置を通り、福渡橋で右岸西側の丘陵地に渡る。塩原街道の旧道は左岸に沿って直進する。塩原温泉旅館組合加盟の温泉宿が6軒あり、これらには前述の塩原グリーンビレッジと右岸西側丘陵地のTAOYA塩原(2023年8月31日に大江戸温泉物語かもしか荘から改称[4])、亀の井ホテル塩原(旧かんぽの宿塩原)も含まれるが[5]、亀の井ホテル塩原は塩の湯温泉からの引き湯を利用している[6]。 福渡橋からは塩原渓谷の名所の一つ「天狗岩」の全貌を見ることができる[3]。橋の近くの福渡温泉神社は1445年に創建、1888年に現在地に遷宮され、1995年に那須塩原市の有形文化財に指定されている[7]。橋を渡った先の塩原温泉天皇の間記念公園には、塩原御用邸の建物の一部が移築されている。 温泉街から箒川を渡った対岸には、岩の湯、不動の湯という2つの混浴露天風呂の共同浴場があった。住民や宿泊者以外は協力金を支払うことで入浴できていたが、不動の湯はたびたび盗撮やAV撮影が行われ風紀が乱れたことを要因として2015年6月1日に閉鎖[8]、岩の湯は、落石の危険性から閉鎖された。岩の湯は、湯舟の底から44℃の源泉が湧き出す露天風呂であった[9]。 歴史![]() 当地にかつてあった和泉屋旅館は1536年(天文5年)創業の歴史を持つ[10]。横山大観や竹久夢二、大町桂月らが泊まった別館は、展示施設「文学亭」として活用されていた[11]が、2020年に破産[注釈 1]した[13]。14代館主は泉漾太郎を名乗り[14]、竹久夢二・山岡荘八と親交を結び[15]、野口雨情に弟子入りし[14][15]、詩人としても活動した[14]。 1884年(明治17年)に塩原街道を整備した栃木県令の三島通庸は、福渡に別荘を構えた。1902年(明治35年)にこの地を訪れた当時の皇太子(のちの大正天皇)は感銘を受け、三島彌太郎は別荘を献上し、塩原御用邸となった[16]。戦後は厚生省に移管し、1948年7月15日に中途視覚障害者更生施設国立塩原光明寮(のちに国立塩原視力障害センターに改称)が開設されたが[17]、2013年に廃止となった[18]。 1937年(昭和12年)に省営バス(のちの国鉄バス、現在のジェイアールバス関東)が開通し、古町温泉に塩原温泉駅が開業するまでは、古町・畑下・門前とともに塩原温泉郷の中心であった。1949年2月25日、福渡大火に見舞われ多くの旅館が焼失する。1944年8月から1948年3月まで塩原に疎開していた浮世絵師の川瀬巴水は、大火の5日後には預かった見舞金を携えて火事見舞いに訪れた[19]。 1962年、塩原開発により屋外スケートリンク「塩原スケートセンター」開業。スケート場の営業は2002年に終了し、跡地は塩原グリーンビレッジのオートキャンプサイトなどになっている[20]。 2018年(平成30年)3月31日、温泉街にあった日本大学塩原研修所が閉館した[21]。「豪華な食事」を売りとし、学生は1泊2食付きで3,150円で宿泊ができた[21]。学生利用だけでなく、第28回医学図書館員研究集会(1993年8月)[22]、電気学会研究会「非線形電子回路の開発技術」(2004年12月)[23]などの会場としても使われた。
交通脚注注釈
出典
外部リンク
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