稲田又左衛門稲田 又左衛門(稻田 又左衞門、いなだ またざえもん、1834年3月1日(天保5年1月21日[1][2])- 1910年(明治43年)3月3日[1][2][3][4])は、幕末の大村藩家老、明治期の政治家・銀行家。衆議院議員、長崎区長。諱・凞孚[1]。通称・才八郎、東馬、又左衛門[1]。 経歴肥前国彼杵郡大村[1][4](現長崎県大村市)で、大村藩士の家に生まれ[2]、19歳で同藩士・稲田中衛の養子となる[2]。藩校五教館で学んだ[1][2]。1854年(安政元年)中小姓に任じられた[2]。以後、諸稽頭取、近習番頭、御用人、長崎御用懸、家老兼烈山隊参謀、吾往隊大隊長、大村藩権大参事などを歴任[1][2][3][4]。藩主大村純熈を補佐した[1]。 廃藩置県後、西彼杵郡大串村に転居した[2]。第二中学大区取締、第十一大区区長、兼第十三大区区長を歴任[2]。1878年(明治11年)10月、郡制実施に伴い西彼杵郡長に就任[1][2][4]。1879年(明治12年)1月、長崎区長となり1880年(明治13年)8月まで在任[1][2][4]。1884年(明治17年)8月、判事補に任官し長崎治安裁判所詰となり、1890年(明治23年)11月、裁判所構成法の施行により廃官となった[1][2]。また玖島銀行頭取に就任した[3][4]。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(長崎県第1区、旧鶴)では次点で落選したが[5]、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(長崎県第1区、中央交渉会)で当選し[1][5]、その後、議員倶楽部に所属し衆議院議員に1期在任した[3][4]。 1898年(明治31年)2月、家督を養子英二郎に譲り隠退した[1][2]。1910年3月、病のため大串村で死去した[2]。 脚注出典参考文献
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