竹内平太郎
竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文久2年12月18日) - 1933年(昭和8年)12月21日)は、島根県松江出身の海軍軍人。最終位階勲等は海軍少将。従四位勲三等功三級[1]に至る。 竹内家初代は松江城天守の修復や、法華宗大雄寺の八角堂や堂宇を作った[2]竹内有兵衛で、松江松平藩の初代藩主松平直政の大工頭であった名工竹内有兵衛(右兵衛、宇兵衛、たけのうち うへえ)の十代目の子孫[3][4]。長男竹内和信は帝国陸軍航空総軍第53航空師団・第7航空通信連隊連隊長(終戦時大佐)[5]。 年譜
栄典・授章・授賞
日露海戦前夜の訓令1900年に主席駐在武官として駐仏公使館に着任した竹内大佐の主要な任務は、露仏同盟によりロシアと軍事的な関係を強化していたフランスにおいて、ロシアの軍事情報を収集することであったとされている[23]。1903年12月22日、海軍次官・斎藤実中将はパリ駐在の竹内大佐に対し、日露戦争に備えて、アルゼンチン軍が発注していたジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦2隻(和名は日進、春日)をイタリア・ジェノヴァ港でその性能を確認し、日本への回航に必要な事項の調査を行うよう極秘訓令を発出した[24]。 その時の極秘電の内容は以下のとおり。 「在巴里竹内大佐 海軍次官 貴官ハ内密ニ且ツ速ニ伊國ニ赴キ「アンサルドー」會社ニテ製造中ノ「アルゼンチン」國軍艦二隻ノ現状ヲ視察シ特ニ次ノ諸件ニ就キ詳細電答アルベシ (中略) 一、船体機関及軍装ノ現状 一、機関及大砲公試ノ成績 一、本邦ニ回航スルニ如何ナル程度ノ準備ヲ要スルカ」 その後、日本が両艦を購入し、在ドイツ公使館駐在武官であった鈴木貫太郎中佐と共に日本に搬送することになった[25]。この時の航路は、地中海-アフリカ大陸-インド洋経由の大回り航路と、地中海-スエズ運河-紅海-インド洋経由のショートカット航路があり、バルト海に常駐するロシア海軍バルチック艦隊が日本海に到達するよりも1日でも早く「日進」と「春日」を日本に搬送するためには、地中海-スエズ運河-紅海-インド洋航路経由が絶対条件であった。しかし、時は既に開戦に向けて日露関係が刻々と悪化しており、黒海に常駐するロシア海軍黒海艦隊が「日進」と「春日」の通過を妨害することは容易に想定できた。そのため、日本は同盟国イギリス(日英同盟)に援護を依頼し、現地の雇い水兵を集めた上で、1904年1月7日、「日進」と「春日」はイタリア・ジェノヴァ港を出港し、その後、ロシア黒海艦隊の前を通過することに成功。同年2月4日にはシンガポールを出港し、同月16日横須賀港に到着した。4日の御前会議で対露開戦が決定され、2月6日、日露国交は断絶した[26]。竹内と鈴木貫太郎はこの時の功績で明治天皇に謁見する。 「露探事件」による引責辞職竹内平太郎が駐仏公使館付主席駐在武官としてパリに赴任していた時期、東京麹町の留守宅に「竹内薫」という人物から慰問袋が定期的に届けられていた。1910年(明治43年)春、竹内平太郎が呉鎮守府庁舎で勤務中、官舎に「竹内薫」を名乗る目鼻立ちが整った美しい女性が訪れ、竹内平太郎に面会を求めた。妻の縫子は、「竹内薫」とは初対面であったが、十数年前より慰問袋を送付されていた差出人の人物であり、同姓の親近感から疑いもせずに官舎洋館の応接間に「竹内薫」を通してしまった。お茶の用意をするため、縫子はその女性一人を残して和館に戻り、10分ほどして洋館の応接間に茶菓子を運び入れた時には、既に「竹内薫」は消え去っていた。その後、20分ほどして竹内平太郎が官舎に戻った時に応接間の隣にある書斎を確認したところ、机の引き出しにあった「重要機密書類」が持ちだされていることが判明した。即座に呉憲兵隊に連絡し、呉市内に非常線が張られたものの、「竹内薫」を発見することはできなかった[27]。 駐仏公使館主席駐在武官時代より、竹内はロシアを中心とした列強諸国の軍事情報などの情報収集や諜報活動を続けており、特に露探(ロシアのスパイ・工作員)からは常にマーク・尾行されていたとされている。この露探事件の責任を痛感した竹内平太郎は呉鎮守府の加藤友三郎司令長官に辞職願を提出し、軍令部出仕、待命となり、翌1911年(明治44年)1月に予備役を命ぜられ、49歳で海軍から辞職することになった。その後、竹内少将は長年の軍功に対し従四位に叙せられた。平太郎が辞職したこの事件については、旧海軍関係の公的史料にはほとんど記されていない。著者の母・前田のぶ(平太郎の二女)が縫子(平太郎の妻で、のぶの母)から事件当時の様子を詳しく娘に語ったことにより、平太郎の外孫である筆者が初めて『季刊山陰 第17号』に公開した秘話である[27]。 脚注
参考文献
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